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天皇の祭祀の本質とは何か──ヒアリングで祭祀の重要性に踏み込んだ櫻井よし子さんの欠点(2012年11月4日)

(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)


皇后陛下が78歳のお誕生日をお迎えになりました。記者会の質問に文書で回答され、宮内庁は「この一年のご動静」などをネット上に発表しました。


 気になるのは、宮内庁が使う皇室用語の乱れです。皇后陛下の宮中祭祀へのお出ましについて、次のように書かれています。

「天皇陛下のご不例によりご代拝となった冷泉天皇千年式年祭の儀,大正天皇例祭の儀,春季皇霊祭の儀・春季神殿祭の儀及びおみ足の捻挫によりお取りやめとなった元始祭の儀,暗くなってから行われる御神楽の儀については欠席されましたが,それ以外の祭祀には全て列せられました」

 祭祀に「欠席」という表現は、違和感がぬぐえません。


▽1 せめて「不参」と書けないか



 表現の乱れは、とりわけ祭祀に関して顕著です。

 宮内庁は「宮中祭祀」について、「天皇皇后両陛下は,皇太子同妃両殿下の時代から,宮中三殿(賢所,皇霊殿,神殿)における祭祀を大切にしてこられました。古くから伝えられる祭儀を忠実に受け継がれ,常に,国民の幸せを祈っておられます」と説明しています。


 この説明がすでに、皇室の伝統から逸脱しています。宮中祭祀は天皇陛下がお一人でなさるのであって、両陛下が共同でなさるのではありません。

 皇后陛下がお出ましになるのは、祭祀の斎行ではなく、拝礼であり、しかも、ほとんど大祭に限られます。

 たとえば、香淳皇后のお歌に、「星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳旦祭に」があります。歳旦祭に出御なさる昭和天皇を、御所でお見送りする場面が歌われています。歳旦祭に、皇后陛下が拝礼されることはありません。


 とはいえ、皇后陛下が祈りのときを共有されることは、いうまでもないことでしょう。

 今年(平成24年)の場合、冷泉天皇千年式年祭などに、天皇陛下は御不例で「御代拝」となり、皇后陛下は「欠席」されたと宮内庁は説明していますが、天皇陛下の場合は、掌典長が祭祀を奉仕し、掌典次長に拝礼させ、皇后陛下は「御代拝」がなかったということでしょう。

 なぜなのか?

 当メルマガの読者なら周知の通り、以前なら、天皇が小祭に拝礼できない場合、皇族もしくは侍従による御代拝となっていたのですが、昭和50年9月の秋季皇霊祭以降、新設の掌典次長による御代拝に変わり、同時に、皇后、皇太子、皇太子妃の御代拝の制度は廃止されたからです。

 その背後には、政教分離の厳格主義の台頭がありました。

 それにしても「欠席」という表現はいかがなものでしょう? せめて「不参」と書けないのでしょうか?


▽2 「御公務にはなっていません」と園部参与



 宮中祭祀の伝統からの逸脱は、用語だけではありません。概念それ自体が揺らいでいます。いわゆる「女性宮家」創設に関する皇室制度有識者ヒアリングでも、そのことが露呈しました。

 天皇の祭祀について、深く踏み込んだのは、ジャーナリストの櫻井よし子さんでした。〈http://www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/yushikisha.html

 櫻井さんは、東日本大震災発生から5日後の陛下のお言葉を挙げ、皇室が「祈る存在」であることを正しく指摘しています。順徳天皇の「禁秘抄」にも触れ、歴代天皇が祭祀を最重要視し、祈りによって国民を統合してきた、と説明しています。

平成24年4月10日のヒアリング議事録
〈https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4410784/www.kantei.go.jp/jp/singi/koushitsu/dai3/gijiroku.pdf〉


 祭祀を私的行為と見なすことを「間違い」とも述べ、御負担軽減のため祭祀を簡略することは「順序がまったく逆」であり、「祭祀を御公務と定義し直すことが重要」とも語っています。

 祭祀を御公務=国事行為と位置づけるべきだ、ということなら、判断は慎重であるべきですが、伝統的皇室論に基づく櫻井さんの主張はおおむね同意できます。

 さて、質問タイムとなり、園部逸夫内閣参与は「宮中祭祀が現在、天皇陛下の御公務にはなっておりませんので、これは除かれるのでしょうけれども、女性皇族にはどういう御活動が相応しいでしょうか?」と尋ねました。

 これに対して、当然ながら、櫻井さんは猛然と反論します。

「今の御質問は非常に重要な問題を含んでいると思います。私の意見陳述の中で、 祭祀が天皇の最重要のお役割だということを繰り返し申し上げました。今、参与がお尋ねになったことは、女性皇族が民間人となられたときのなさるお仕事の一部として、祭祀も挙げられましたが、これは妥当ではないと思います。祭祀は天皇がなさるものでありまして、この祭祀を皇室のプライベートな行事、プライベートな仕事と定めた戦後の在り方自体に、私は異議を唱えております。祭祀は天皇がなさるべきものであり、民間人となった女性皇族がなさるものではないと思います」

 園部参与の「祭祀は陛下の御公務になっていない」という指摘は、著書の『皇室制度を考える』でも何度か言及され、祭祀は天皇の私事と解説されています。


「宮中祭祀をはじめ宗教的性格があると見られることが否定できない行為は、天皇は象徴としての立場で行うことはできず、私的な立場によってのみ行うことができると解されており(通説。政府見解)、現行制度の解釈としては妥当といえよう」

 天皇の祭祀には宗教性が否定できないから、憲法の政教分離の原則上、国の機関としての立場では行えないというのが政府の見解だ、というのが園部参与の見方です。

 しかし、いまだ占領期の昭和26年に貞明皇后の御大喪が旧皇室喪儀令に準じて行われ、50年前には賢所大前の議を含む、今上陛下の御結婚の儀が「国事」として挙行されていますから、戦後、揺るぎない憲法解釈ということにはなりません。

 その点、「祭祀を皇室のプライベートな行事、プライベートな仕事と定めた戦後の在り方」と言い切っている櫻井さんも何ら変わりがありません。


▽3 神道学者も政府も「稲作儀礼」



 少なくともヒアリングでの意見を読むかぎり、ですが、櫻井さんの意見で欠けているのは、宮中祭祀の変遷史に関する理解もさることながら、天皇の祭祀の本質とは何か、ということでしょうか?

 歴代天皇が祭祀を重視してきたのは無論ですが、その祭祀とは具体的にどのような内容のものなのか、祭祀の意義は何か、です。

 この本質論が欠けているからこそ、「女性宮家」創設論などという、過去にない、混乱した議論が生まれてきたのでしょう。

 論より証拠、試みに「論点整理」を開いてみると、冒頭の引用文と大同小異のことが書かれています。

 興味深いのは、平成17年の皇室典範有識者会議の報告書です。参考資料に、大嘗祭について次のように説明されています。

「『大嘗祭』とは、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖(天照大神)及び天神地祇(すべての神々)にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式。皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式」

皇室典範有識者会議報告書の参考資料から
〈https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/233374/www.kantei.go.jp/jp/singi/kousitu/houkoku/houkoku.html〉


稲作社会の収穫儀礼だという説明は、御代替わり当時の政府の理解と同じです。宮内庁の『平成大礼記録』(平成6年)は次のように説明しています。

「大嘗祭は、稲作農業を中心としたわが国の社会に、古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇陛下が即位の後、はじめて、大嘗宮において、悠紀主基両地方の斎田から収穫した新穀を、皇祖および天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖および天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である」

 内閣官房の『平成即位の礼記録』(平成3年)の説明もほとんど同じです。

 御代替わり当時、宮内庁掌典職に在職し、祭事課長を務めた鎌田純一皇學館大学名誉教授(神道史学)の『平成大礼要話』も、「稲作農業を中心としたわが国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたもの」と説明していますが、ここに根本的な誤りがあるのではないでしょうか?


 稲作儀礼であるなら、伊勢神宮の祭祀と同様に、皇祖神を祀る賢所で、皇祖神に稲の新穀を捧げれば十分です。しかし、天皇は大嘗宮(新嘗祭なら神嘉殿)で、皇祖神ほか天神地祇に、稲のみならず粟の新穀を供えられ、みずから召し上がります。

 なぜ天神地祇なのか? なぜ大嘗宮(神嘉殿)なのか? なぜ粟なのか?

 天皇の祭祀が稲作儀礼であるという理解なら、以前、明治学院大学の原武史教授が、もはや農耕社会ではない現代において、農耕儀礼である宮中祭祀の廃止を検討したらどうか。皇太子は格差社会の救世主として行動すべきだ、と提案したように、宮中祭祀廃止論も十分な説得力を持ちます。実際、天皇の祭祀は簡略化されました。

 稲作信仰だとすれば、「皇室の私事」という理解も十分、あり得ます。

 未熟な学問が、皇室の伝統から逸脱する祭祀簡略化や「女性宮家」創設論を促し、ジャーナリズムもそれを指摘できないでいるのではないか、と恐れます。宮内庁用語の乱れは、その1つの結果に過ぎません。


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