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宮内庁長官の「苦言」で宮中「激震」?──気がかりは御健康と祭祀の伝統(「神社新報」平成20年3月17日号)

(画像は平成18年12月20日、お誕生日会見に臨まれる陛下。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)

「苦言とはニュアンスが違う」「ご発言を大切になさっていただければと(皇太子殿下に)願いをいった」。先月(平成二十年二月)二十八日の定例会見で宮内庁長官がふたたび口を開き、発言の真意を説明したと伝えられます。

 いうまでもなく、「苦言」とは二週間前の会見で、長官が「ご参内の回数が増えていない」と、殿下に対して異例の指摘をしたことです。


▢1 長官の真意


 発端は一昨年(平成十八年)の暮れでした。天皇陛下お誕生日会見で「皇太子ご一家に寄せられる思い」を尋ねられ、

「残念なことは、愛子が私どもと会う機会が少ないことです。いずれは会う機会も増えて」とお述べになりました。

 二カ月後、今度は殿下がお誕生日会見で、

「陛下の愛子に対するお気持ちを大切に受け止めて、これからもお会いする機会を作っていきたい」と答えられました。

 しかし参内は逆に減りました。長官の説明では、陛下の皇太子時代には週に一度の参内があったのが、殿下は「年に二、三回程度」といいます。

 報道によると、長官は会見までに何度も殿下に直接、改善を申し入れたようです。そして批判を覚悟のうえで「発言されたからには実行を伴っていただきたい」と会見で発言したというのです。

 長官は陛下のお気持ちをどう理解し、「苦言」するに至ったのでしょう。「孫に会えない」という陛下の寂しさを晴らそうという私的レベルの発想でしょうか。それとももっと高次元の思し召しと考えての行動でしょうか。

 もし前者なら、本来は会見の席で公にすべきことではないでしょうし、マスコミの力を借りて、という発想は騒動の火種を長官みずからまき散らすことであり、宮内庁のトップとしての適格性を問われかねません。石橋を叩いて渡る性格といわれる長官ですが、あえて火の粉をかぶるつもりで行動したのだとすれば、私的レベルの問題ではないといえそうです。

◇2 がん治療の副作用


 つまり「愛子さまに会いたい」という陛下のお気持ちはきっかけに過ぎないということになります。たとえば帝王学の一端を東宮家に伝えたい、というお考えと理解し、長官は思い切って行動したのかも知れません。その後の会見では「参内以外でも実行を」と言及しています。

 長官発言は案の定、波紋を呼び、二十三日の殿下のお誕生日会見に注目が集まりました。

 むろん殿下が「天皇に私なし」という大原則をご存じないはずはありません。しかし

「両陛下の愛子に対するお心配りは、感謝している。参内の頻度についてはできるだけ心がけたい。家族のプライベートなことがらなので、これ以上は差し控えたい」と、多くを語られませんでした。

 あるコラムニストが指摘するように「悲しいことに、皇族の誕生日が気の重いことを言い合う日になってしまった」のですが、同じ二十三日の東宮での夕食会に両陛下がご出席になったのには久しぶりに心が和みました。両陛下は今月二日にも東宮家を訪れ、ごいっしょに梅を観賞されました。

 けれどもふたたび心配事が持ち上がりました。陛下のご健康です。

 二十五日の宮内庁発表によると、陛下はガン再発予防の治療をお受けになっていますが、その副作用でこのままでは骨に異常を引き起こす可能性が高いと診断されています。宮内庁は新たな療法を検討するとともに、宮中三殿での祭祀が三月末から再開されるのに合わせて、ご負担の軽減の調整を実施する、と伝えられます。

 たとえば昨年(平成十九年)十一月ごろは毎日のようにお出ましが続きました。両陛下の過密スケジュールには驚くばかりですが、秋篠宮殿下がお誕生日会見で、前年に続き、ご公務のご負担についてふれられたことが影響したのか、その直後からお出かけのニュースはめっきり減りました。

 代わって十二月中旬からほぼ一カ月間、陛下は祭祀と儀式の多忙な日々を過ごされました。重要な祭儀がこの時期に集中しています。祭祀こそは天皇第一のお務めですが、これほどの激務はありません。

▢3 祭祀の伝統



 宮内庁発表にあるように、昭和の時代にも「所要の調整」はありました。

 六十二年秋に昭和天皇が開腹手術を受けられたとき、政府は国事行為の臨時代行を皇太子殿下(今上天皇)に委任しました。その後、ご回復に従い、「法律、政令などの公布」「儀式の執行」など七項目については委任が解除されました。

 しかし翌年夏、那須御用邸からヘリコプターで帰還され、戦没者追悼式にご参列になり、お言葉を述べられたあと、陛下のご容態は急変し、政府はふたたび殿下に国事行為を全面委任することを閣議で決めました。

 陛下の御外遊に伴って皇太子殿下が臨時代行を務められた例はありますが、ご病気に伴う臨時代行の設置は初めて、とメディアは解説しています。

昭和63年9月22日朝日新聞夕刊


 当時といまの状況とはもちろん異なりますが、今上陛下がご高齢で、療養中なのは事実です。ご回復を心よりお祈り申し上げるばかりですが、気がかりなのはやはり祭祀のことでしょう。

 戦前は皇室祭祀令(明治四十一年)に「天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典(大祭)ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム」などの規定がありました。

皇室祭祀令@国会図書館


大正天皇の場合は、八年の新嘗祭は御親祭になりましたが、歳末の節折の儀は出御がなくお取りやめ、九年の歳旦祭は侍従の御代拝、元始祭は掌典長の御代拝、御講書始はお出ましになりましたが、紀元節、春季皇霊祭、明治天皇祭は掌典長の御代拝、天長節は侍従の御代拝などと続き、翌十年十一月の皇族会議を経て、皇太子殿下(昭和天皇)が天皇の大権を代行する摂政にご就任されました。皇室典範制定以来の重要事と伝えられています。

大正8年11月24日の東京朝日新聞から


 時代が変わり、昭和六十三年九月の一般紙は国事行為の臨時代行に関する報道のみでしたが、新嘗祭は掌典長が代わって奉仕しました。

 今回は国事行為ではなく、もっぱら祭祀のご負担を軽減しようと宮内庁は考えているようです。

 現憲法は「天皇は憲法が定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と定めています。天皇の祭祀はこの国事行為とは考えられていません。現行憲法では私的行為と位置づけられています。

日本国憲法原本@国立公文書館


 しかし祭祀の伝統が軽視されていいはずはありません。地上の支配者であるヨーロッパの国王とは異なり、皇祖の神勅に基づく公正無私なる祭祀王であることが日本の天皇の本質だからです。「国平らかに、民安かれ」と絶対無私の祈りを捧げてきたのが天皇であり、「およそ禁中の作法は神事を先にし、他事を後にす」(順徳天皇「禁秘抄」)といわれるほどに、この祭祀を重んじてきたのが日本の皇室だからです。

禁秘抄@京都大学


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