「第2の栗栖弘臣」を報道した「週刊文春」昭和58年1月20日号の記事──宮内庁あげての宮中祭祀改変(2008年5月13日)
(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)
原武史・明治学院大学教授の宮中祭祀廃止論批判を今号も続けます。
その前に、ひと言お礼を申し上げます。27号(4月15日号)から始まった原批判ですが、おかげさまで高名な大学の先生など、多くの方々から過分なる評価を受けました。あつくお礼を申し上げます。
▽1 前号のおさらい
さて、前号では、昭和後期の宮中祭祀に関する歴史を、時系列に従って細かく振り返りました。
簡単におさらいすると、原教授は、祭祀「簡略化」の背景として、60年代以降の農村社会の衰退をあげ、農耕儀礼が形骸化し、宮中祭祀が報道されることもなくなった、と説明していますが、宮中祭祀は農耕儀礼ではありません。簡略化の背景も違います。側近の世代交代が起こり、憲法の政教分離原則をことさら厳格に考え、祭祀の伝統を軽視する考えが大きなうねりとなって、行政全体を覆い、天皇の側近にまで浸透したのです。
また原教授は、祭祀「簡略化」の経緯について、昭和天皇の「高齢」を理由に宮中祭祀が削減・簡略化され、これに対して、昭和天皇はいいがたい不安を覚えていた。晩年まで「祈り」にこだわった、という、じつに単純な、単線的な歴史理解をしていますが、これも誤りです。原教授は憲法論を完全に見落としています。
そうではなくて、最初は入江侍従長の主導で、昭和天皇の「高齢」を名目に「簡素化」という改変が現れ、やがて自称「無神論者」の富田宮内庁次長が登場したころから、政教分離論が表面化し、宮内庁の組織をあげて、いよいよ祭祀の改変・破壊・空洞化が進んだのです。私は4段階説を提示しました。
このような祭祀の重大な改変の実態は、いまでこそ側近たちの日記によって知ることができますが、当時は関係者以外、ほとんどうかがい知ることができませんでした。驚きの実態が明るみに出たのは、昭和57年暮れに現職の掌典補である永田忠興氏が、勇気をもって学会発表したことで、翌年年明けには「週刊文春」がこれを大きく報道し、大騒動に発展します。
今号では、このときどのような議論が行われたのか、を振り返ります。いま、今上陛下が高齢になり、しかも療養中というときに、いみじくも原教授のような祭祀廃止論が登場しているときに、何を議論しなければならないのか、が浮かび上がってくるはずです。
▽2 本心を暴けば十分なのか
本論に入る前に、発売中の雑誌「正論」6月号に、友人の新田均・皇学館大学教授による原武史論文批判が載っていますので、これについて簡単にお話しします。
新田教授の批判は、原教授が宮中祭祀廃止までいいだした意図を、これまでの研究経歴から検証し、原教授は、天皇支配の「伝統」を相対化する目的から、天皇論の「主流の言説」の隣に「似て非なる傍流の言説」を設定し、それを巧みに美化することにより、「主流の言説」の不当性、非合理性、非人間性を読者に印象づけるという作業を続けてきた、と批判しています。天皇制度の相対化という努力の到達点が祭祀廃止論だというわけです。
要するに、保守派言論人からも一定の評価を受けてきた原教授の本音は天皇制度の否定である、そういう原教授の本心が見えればそれで十分だ、と斬り捨てたわけです。論理としてはもっともですが、批判として十分か、といえば、必ずしもそうではないだろう、と私は考えます。
新田教授はさすが神道学者らしく、宮中祭祀は「創られた伝統」ではない、という反論も加えているのですが、原教授の主張に対抗して、天皇とは何か、宮中祭祀とは何か、を論じているわけではありません。その必要性を感じているようでもありません。少なくとも「正論」の論考では、原教授の「詭弁」「本末転倒」に対する論難にとどまっています。それは神道的でしょうか。
罪を憎んで人を憎まず、が神道であり、人を斬って捨てるのではなく、生かすのが神道の心かと思います。たとえば、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづうずひこ)は、学問は一人でするものではない、と心得て、あえて左翼学者の群れに飛び込み、共同研究に取り組み、意見は一致しないものの、左派人士から深く敬愛されました。これこそが神道人です。
私が当メルマガで、「長すぎる」という読者からの苦言を甘受しながら、あえて長丁場の原批判を試みているのは、そのような先人に習いたいからです。新田教授にも、神道学者である以上に、神道人として大成されることを、友人として心から願いたいと思います。左翼学者に「反天皇」のレッテルを貼り、こと足れり、とすることはけっして神道的ではないでしょう。全国津々浦々の神社は右翼のものでも左翼のものでもありません。天皇は刃向かう者のためにさえ祈っています。
▽3 衝撃を与えた「週刊文春」の記事
本論にもどります。時間を昭和58年にもどしましょう。
「週刊文春」は年明け早々、三笠宮寛仁殿下の皇籍離脱問題や杉浦昌雄侍医の辞意などで揺れた宮内庁の内幕を2回にわたってリポートし、閉鎖的な官僚体質をあぶり出すとともに、やがて来たる皇位継承に関する法的不備を指摘しました。
連載はむろん話題を呼びましたが、さらに衝撃を与えたのが1月20日号でした。宮中祭祀の本質に関わる「重大な変化」が起きていることが明らかになった、という永田掌典補の学会発表を大きく取り上げたのです。
記事は、その5年前、自衛隊法の不備、有事法制の必要性を、身を賭して告発した栗栖弘臣(くりす・ひろおみ)統合幕僚会議議長になぞらえ、「第2の栗栖」になるか、と挑発しています。
すでに当メルマガで説明したように、永田掌典補の指摘は、旬祭御代拝、毎朝御代拝の変更、伊勢神宮での皇太子御代拝の変更、など6点でしたが、「週刊文春」はこのほかにも、
1、常陸宮御殿の新築までは地鎮祭を掌典職が行ったが、三笠宮寛仁殿下の新居建築には掌典職は呼ばれなかった
2、宮中にいる鍛冶屋が鍛冶屋特有のふいご祭りを行うことが禁止された
3、新嘗祭で神前に供される白酒(しろき)・黒酒(くろき)が宮中では造られなくなった
などの事例を取り上げました。いずれも憲法が定める政教分離原則を厳格に考えた結果のようでした。
記事が解説するように、昭和52年7月の津地鎮祭訴訟の最高裁判決は、積極的な布教を目指す宗教活動でない以上、地鎮祭など公的機関による宗教行為は合憲である、と判断したのです。にもかかわらず、宮内庁は寛仁殿下の新居の地鎮祭を掌典職には担当させませんでした。明らかな自己規制です。
そればかりではありません。皇室伝統の祭祀に携わる掌典職の待遇は、女性の内掌典を含め、激務にもかかわらず、けっして良いものではない。宮内庁の祭祀に対する無関心を明白に表しているのではないか、と記事は指摘しました。
▽4 占領下の便宜的措置
矛盾点ははっきりしていました。古来、「天皇に私なし」であり、ひたすら国と民のために祈り続けられてきた天皇の祭祀が、現行憲法下において、「皇室の私事」と解釈されていることに無理があるのでした。
記事は、宮内庁関係者によれば、祭祀が「私事」であるという解釈はもともと便宜的なものだった、と説明します。
昭和20年暮れにGHQは「宗教を国家から分離すること」を目的とする神道指令を発しました。国家神道こそ「軍国主義・超国家主義」の源泉だと誤解する占領軍は、神道への差別的圧迫を加えたのです。
そのような状況下で、宮中祭祀を守るためには、天皇の基本的人権による信仰という解釈を採るしかなかった、と記事は説明します。
終戦直後の宮内次官・大金益次郎(戦後初の侍従長)は、国会の答弁で、「天皇のお祭りは天皇個人としての私的信仰や否やという点には、じつは深い疑念があったけれども、何分にも神道指令はきわめて過酷なもので、論争の余地がなかった」と語った、と「週刊文春」は伝えています。
神道指令は駅の門松や神棚までも撤去させるほど過酷でしたから、皇室伝統の祭祀を守るため、当面、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈でしのぎ、いずれきちんとした法整備を図る、というのが方針だったのでした。
GHQは、天皇が「皇室の私事」として祭祀を続けられることについては、干渉しませんでした。祭祀を従事する掌典職は内廷費で雇われ、公務員ではなく、天皇の私的使用人として位置づけられるようになったのです。
原武史教授の『昭和天皇』は、神道指令は宮中祭祀についてほとんど触れておらず、祭祀は戦後も温存された、と書いていますが、これが「温存」でしょうか。もとより、占領軍が被占領国の宗教に干渉することが戦時国際法違反であることを、原教授は見過ごしています。GHQの政策は間違いなく、「温存」ではなく、「不当な干渉」というべきです。
▽5 「皇室の私事」を放置してきた行政の怠慢
GHQの干渉の背景には、「国家神道」を「軍国主義・超国家主義」の源泉と見る誤解があったようですが、やがてその誤りに気づいたのか、占領後期になるとGHQは、国家と宗教の分離ではなくて、国家と教会の分離という緩やかな分離主義に、神道指令の解釈を変更します。実際、昭和24年には松平参議院議長の参議院葬が神式で行われ、26年には吉田首相の靖国神社参拝も認められています。さらに、日本が独立を回復し、神道指令は失効します。
ところが、それにもかかわらず、「宮中祭祀は皇室の私事」という解釈の見直しはなされませんでした。「週刊文春」が指摘するように、行政の怠慢以外の何ものでもありませんが、それどころか戦後30数年にもなって、逆に、厳格な政教分離主義が行政に蔓延し、あろうことか天皇の側近たちによって、昭和天皇の「高齢」を口実に、皇室伝統の祭祀の改変・破壊が行われたのです。
「週刊文春」はこれに対する識者の反応として、評論家・福田恒存のコメントを載せています。
「私には冗談としか思えません。……天皇の祭祀は個人のことを祈るわけではなく、国家のことを祈るわけですからね。もしこんなことを宮内庁が続けるとしたら、陛下を宮内庁から救出する落下傘部隊が要りますねえ」
「憂念禁じがたい」と、もっとも強く反発したのが、尊皇意識の人一倍高い神道人たちでした。「宮中の伝統祭祀が占領時代に大きく変革されたのみならず、近ごろになって陛下の御意志でもないのに、軽んぜられ、大きく変貌しつつある」(神社新報の論説)ことに、神社人は抗議の声を上げ、富田朝彦・宮内庁長官宛に質問書を提出します。
幾多の交渉を経て、数カ月後、宮内庁側は、「(賢所の祭儀は)ことによっては国事、ことによっては公事として行われる」とする、東園掌典長名の回答書を発表しました。
具体的にどのようなやりとりがあったのか、は長くなりますので、次号でお話しします。