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新段階に入った「国家神道」研究──気鋭の宗教学者・島薗進氏の参加で(「神社新報」平成13年2月12日号)


 昨年平成12年の「神の国」騒動で、一部の政治家や宗教者、マスメディアなどが手厳しい天皇批判、神道批判を繰り返したことは記憶に新しい。

「明治政府は神道を事実上、国教とした」「神社は特別の保護を受けた」というような記事を大見出しで載せた新聞もある。戦後の実証的な近代宗教史研究はかなり進んでいるはずだが、一般社会の常識は非実証的、観念的で、千年一日のごとしというべきだろうか。

 けれどもとくに意外な感じがしたのは、むしろ神道批判の嵐の中で、神道人といわれる人たちからの反論が聞こえてこなかったことである。唯一の例外として一人気を吐いたのは、皇学館大学助教授の新田均氏であった。

 言論雑誌で「鎮守の森は泣いている」と森発言を批判した著名な仏教学者に対して、「近代神道史および日本の歴史そのもの、神話の本質を無視している」と噛みついた。「論考は五年前の雑誌論文の切り張りに過ぎず、近年、めざましい近代神道史研究の成果に目を通していない。非学問的な空想である」と舌鋒鋭く反論した。

 しかしそれなら、「近年、めざましい近代神道史研究の成果」とはどのようなものなのか。「国家神道」=近代日本宗教史研究の最前線を追ってみた。

▢「神道指令」以来の用法の混乱
▢村上三部作と葦津神道論の対立


 今日、「国家神道」研究の第一人者といえば、国学院大学教授・阪本是丸氏であろう。平成6(1994)年1月には『国家神道形成過程の研究』を岩波書店から出版した。テーマは、近代日本において「国家神道」が制度的にどのように形成されたのか。十数年にわたる地道な研究の成果である。


 阪本氏に「先生の著作をいちばんまともに、いちばん好意的にとらえて、書評を書いていたのは、東大の島薗(進)教授でしたね」ともちかけてみたのは、今年の正月である。島薗氏は、日本宗教学会発行の「宗教研究」平成六年十二月号で、「近代宗教制度史研究、神道史研究の画期的な成果として長く読みつがれる業績となるであろう」と阪本氏の著書をことのほか高く評価してゐる。

「その島薗さんが最近、国家神道研究を始めた。去年は学会発表もしている。今年の年賀状には、いろいろ教えてほしいが、お忙しいでしょうか、と書いてあった。一度、会ってみたら」

『現代救済宗教論』『時代のなかの新宗教』など、優れた新宗教研究で知られる宗教学者・宗教史学者の島薗氏が国家神道研究とは面白い。さっそく本郷キャンパスを訪ねた。


 いやでも歴史を感じさせずにはおかない法文二号館の、書物に埋まった天井の高い研究室で、島薗氏は戦後の近代神道史研究を振り返り、「これまでは宗教学者の村上重良氏が書き著した『岩波三部作』(『国家神道』『慰霊と招魂』『靖国神社』)の影響力が非常に大きく、社会的には村上説が『国家神道』理解のスタンダードと見なされてきた」と切り出した。


 村上氏は、「国家神道」を「神社神道」「皇室神道」「国体の教義」の三者からなるものととらえ、明治維新から敗戦に至るまで80年の長きにわたり、国家宗教として国民の生活意識のすみずみに至るまで浸透した、と広く理解した。そして、国家神道の下に教派神道や仏教、キリスト教など他の宗教が従属し、その内実を満たす役割を果たしたとみて、その総体を「国家神道体制」と名づけた。

 そう解説し、村上氏の研究の一定の妥当性を認めつつも、「しかし、村上氏の研究には穴がある」と島薗氏は指摘する。

「国家神道」の概念が曖昧で、なぜひとかたまりの概念で把握できるのか、その理由が示されていない。マルクス主義の影響から、先入観に基づいて神道を「悪玉」に仕立て上げるため、さまざまな要素を恣意的に寄せ集めたかのようにも見える。史料の読み方も大雑把であったという。

 これに対して、「国家神道」の概念を明確に規定したのが、葦津珍彦氏の『国家神道とは何だったのか』である、と島薗氏は理解する。


 近代日本の宗教や政治、思想を語るとき、もっとも頻繁に用いられ、近代神道批判の常套語とされたにもかかわらず、「国家神道」という用語は具体的に何を意味するか、明確でない。葦津氏は、「宗派神道や教派神道と区別された神道の一派」などと「神道指令」に明文化された定義に基づき、戦前の神社神道が国家と特別の結びつきを持っていたことに限定して「国家神道」の用語を狭く用い、「神道の一派」の歴史は悠久な日本史の一時期の現象に過ぎない、と主張した。

 けれども、村上氏に代表される狭義の用法と葦津氏に代表される広義の用法とが対立し、それぞれ互いにイデオロギー的、思想的立場があって、議論がかみ合わないままにきた。じつは「神道指令」自体が「国家神道」の概念について首尾一貫しておらず、狭義と広義の用法が混用されていたのだが、その混乱をそのまま引きずってきたのが戦後の学問的理解であった--と島薗氏は総括する。

▢坂本是丸氏の制度史研究が
▢明らかにした村上説の不備


 そこへ阪本是丸、新田均、山口輝臣(高知大学講師)という新しい研究者が現れた。それぞれの制度史研究、実証的な研究はさまざまな問題点を明らかにした。

 先述した「狭義の用法」「広義の用法」という図式を提起したのは新田氏で、自分の仕事は新田氏の研究に負うところが大きい、と島薗氏は語る。

 また阪本氏の『国家神道形成過程の研究』は、明治三十三年に内務省に神社局が設置され、社寺局が宗務局となり、神社と諸宗教の管轄が切り離され、「日本型政教分離」が成立して「国家神道」の制度が確立するまでの、あるがままの歴史について、基本的認識を与えてくれたと指摘する。

 村上氏の理解では、宮中祭祀と神社神道の結合によって構成された儀礼と制度の体系が「国家神道」であった。これを非宗教的な祭祀として、諸宗教の上に立つものと位置づけたのが明治十五年の神官教導職分離による「祭祀と宗教の分離」であって、ここに「国家神道」が成立した。近代日本国家は終始一貫して「国家神道」にテコ入れし、国民の国家への忠誠と献身とを引き出す道具として利用した──とされた。

 この村上氏の枠組みは正しいのか、と問いかけたのが阪本氏であると語り、島薗氏は次のように解説する。

 阪本氏の着眼がユニークなのは、たとえばその時々の神社政策の決定に関与した個人や勢力の思想や発想の違いを見逃さないところにある。

 一例を挙げれば、近代国家体制に見合う全国的な神社体制を築くため、官幣社と国幣社の統一を目指そうとする旧津和野藩の大国隆正派国学者、福羽美静ら神祇官・神祇省の立場と、律令的な宮廷秩序の伝統を重んじる式部寮の立場との違いが、「神社祭式」のあり方にどのように影響したのか、を阪本氏は追いかけている。

 阪本氏の研究から明らかになってくるのは、最初に神道イデオロギーで理論武装した権力者群がいて、明確な計画や展望を持ち、それによって「国家神道」やその制度体系が作りだされたのではなく、さまざまな個人や勢力の思惑の相互作用によって、紆余曲折の末にそれらが一応の形を整えたに過ぎないということである。

 全体的な構想が見えていたはずの井上毅らによる「日本型政教分離」の構図も、議会による神道の待遇改善要求の声に押され、変更されている。

 また、地域の神社とその神職は、近代国家に優遇され、ほしいままに影響力を行使し得たかのようにこれまで見なされてきたが、実際には逆に宗教活動を制限され、財政的にもけっして恵まれてはいなかったし、近代神道が華やかな道をたどったわけでもなかった。

 阪本氏はとくに「神社の非宗教化」に、近代神道の悲劇を見ようとする。近代化の趨勢と神道による国家秩序の形成、支へ合いながらも矛盾し合うふたつの力の狭間で、神社神道はもてあそばれ、引き裂かれていた。外圧に耐えながら国民統合を実現するためには仏教界の意思を無視できなかったから、神社が国家によってひたすら優遇されたわけでもなかった。

 阪本氏のまことにねばり強い、丹念な研究は、枠組み先行で、実証性に欠ける村上氏の「国家神道」理解の不備を浮き彫りにした。また一方では、国民国家論の研究が進展し、ナショナリズムと宗教的伝統とが結びついた「国家神道」が世界的に見てけっして特異なものではないことも分かってきた。

 西欧モデルを唯一の標準とする西洋中心主義も崩れ、村上説には一定の妥当性があるにしても、もう間に合わなくなった──と島薗氏は指摘する。

▢イデオロギー的「国家神道」論と
▢制度史研究の総合を目指したい


 島薗氏は「『国家神道』研究は新しい段階にきた」と考える。

「制度史・行政史によるアプローチ」と「思想・イデオロギー面からのアプローチ」があることを認め、これまで軽視されがちだった前者に力点を置いて阪本氏は研究を進めた。

 研究者としては研究対象を限定することは賢明であり、だからこそ大きな成果が得られたのだが、それなら「思想・イデオロギー的アプローチ」とはどのようなものなのか、「思想・イデオロギー的な面」をも含んだ「国家神道」の全体像とはどのようなものか、阪本氏の著書からは見えにくい。

 今後は「制度史・行政史的アプローチ」と「思想的・イデオロギー的アプローチ」とを総合することが求められる。

 島薗氏はそう語り、「国家神道」の広義の用法を鍛え直す道を選びたい。今後の課題として積み残されたイデオロギー的側面の研究を手がけたい、と意気込んでいる。

 それでは今後、どのような「国家神道」研究の展望が開かれてくるのか。島薗氏は、新たな「国家神道」概念を構築するうえでの重要なポイントを次のように指摘している。

 第1点は、「宗教」をとらえ直す広い枠組みの必要性。明治以来、「宗教」という概念のほかに「祭祀」「治教」「皇道」などの概念があった。神社=神道と狭くとらえずに、さまざまな集団に目を向けながら、広く「国家神道」を体系づけることが求められる。

 第2点は、学校教育の見直し。「国家神道」の宣布と受容に学校行事が果たした役割は決定的に重要である。なかでも「治教」の核心である教育勅語について見直すことが必要だ。靖国神社拝殿

 第3点は、明治以後の宗教史を、村上氏は4段階に分けて理解したが、もっとていねいに実証的に考察していく必要がある。

 第4点は、「国家神道」という皮袋に何を入れるのかというイデオロギー論。明治期には「宗教」という語を用いずに「国民道徳」「民族精神」「日本精神」を論じた宗教学者もゐる。神社に限定せずに、広く見渡していく必要がある。

 第5点は、比較文化の視点。ヨーロッパやイスラム世界と比較し、日本の近代を比較文化論的に相対化する視点も必要だ。

 最後に島薗氏は、「私の役割は整理屋。個別研究がもっと活気づくように交通整理をやりたい。海外の研究者と議論する場合にも役立つはずだ」とにこやかに語った。

 他方、五年前、「国学院大学大学院紀要」に、ある書評に反論する形で初めてのイデオロギー的アプローチによる論考を発表した阪本氏は、「島薗さんが国家神道の研究を始めると面白くなる」とエールを送る。昨年の学会では、「国家神道」概念の規定をめぐり、二人の間で質疑応答が交わされたともいう。

 今後、「国家神道」研究はどこへ進むのか。それによって、一般の近代史理解や神道理解はどこまで深まるのか。少なくとも袋小路に入った靖国問題や政教分離裁判に影響を与えることだけは間違いないだろう。


追伸 この記事は宗教専門紙「神社新報」平成13年2月12日号に掲載された拙文「新段階に入った国家神道研究」に若干の修正を加えたものです。

 島薗先生によると、先生が内外の学会で発表された「国家神道論」はヨーロッパなどでは論戦を巻き起こしたそうです。というのも、ヨーロッパではむしろ「国家神道」概念の有効性を疑い、神仏習合の歴史から神道を理解する研究者が多いからで、近代神道の全体構造に光を当てようとする島薗先生の姿勢は新鮮に受け止められているそうです。

 その後、島薗先生は『国家神道と日本人』を著されました。私のメルマガでは「国家神道」「教育勅語」をめぐる、畏友・佐藤薙鳴氏との往復書簡を企画したほか、私による批判的な書評も載せました。このブログに転載してありますので、どうぞお読みください。(2001年02月12日)

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