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「文相より相談」と明かした50年後の「釈明」──井上哲次郎『教育勅語衍義釈明』を読む 2(2017年4月19日)


 教育勅語を解説した井上哲次郎の『勅語衍義(えんぎ)』に関して、当面の疑問はふたつある。

 1つは、『明治天皇紀』に記録されているように、芳川顕正文相が知識人に教育勅語の解説本を著述発行させ、教科書に使用する目的をもって、井上に委嘱した結果としての出版なのか、それともそうではないのか。



 すでに指摘したように、井上の『勅語衍義』(明治24.9)にも『勅語衍義、増訂24版』(明治32.3)にも、芳川文相の依頼について触れられていない。それどころか、まるで井上個人の私的な出版企画であるかのように説明されている。

 芳川文相が井上に委嘱したという『明治天皇紀』の記述はもしや誤りなのか。

 真実に迫るべく、前回から、意味ありげなタイトルに惹かれて、米寿を迎えた井上が書いた『教育勅語衍義釈明』(昭和17)をひもといているのだが、はたせるかな、50年前の『勅語衍義』を再録したあとに続く「釈明」の章に、答えがずばり用意されている。



▽1 「解釈を作るようにといふ相談」



 第一節のタイトルは、ほかならぬ「『勅語衍義』述作の由来」である。

 井上はドイツから帰朝したころの回想から説き起こしている。井上は明治23年10月13日に帰国した。帝国大学文科大学教授に任命されたのは23日だった。そして教育勅語の解説文作成を依頼されるのである。むろん芳川文相その人からである

「その後いくばくもなく、ときの文相芳川顕正氏より、その年の10月30日に渙発された『教育勅語』の解釈を作るようにといふ相談を受けた」

 米寿を迎えた井上がいまさらウソを言うわけはないだろう。むしろ、なぜ最初からそう説明しなかったのか、なぜ50年も経ったいまごろになって「文相より相談」という事実を明かしたのか、である。

『明治天皇紀』は教科書にする目的だったが、結局、「私著として上梓」されたと記録している。芳川の教科書構想はいわば頓挫したわけだが、井上はその事実を一般に知られたくなくて、『衍義』では文相の委嘱話を隠してきたということだろうか。

 井上は50年後の『釈明』でさえ、芳川が「教科書として」と相談をもちかけたかどうか、言及していない。「解釈を作るように」という相談だったとされているだけである。井上にはまだ隠し続けていることがあるようだ。

 ともかく、文相から話を持ちかけられた井上は、慎重に考慮し、「かねて『教育勅語』の御趣旨のまことにありがたいことを深く感銘してゐる際であったからして、ついにその任にあたることに決心した」のだった。

 そう述べて、井上は自分のキャリアを振り返っている。幼少から漢学を学んだこと、東大では哲学を専攻したこと、その間、英語で諸学科を修めたこと、卒業後は東洋哲学史を編纂したこと、ドイツ留学は6年10か月に及んだこと、などである。


▽2 ドイツ仕込みの愛国主義



 当時のドイツは国運勃興の時代で、井上は、ドイツ国民のきわめて旺盛な愛国心をしみじみと体験した。ところが帰国した日本は、外国崇拝の念がはるかに多大で、井上は「忠君愛国の精神の大いに振起せられざるべからざることを痛感」していた。

 勅語渙発後、11月3日の天長節(明治天皇誕生日)に、帝国大学では加藤弘之総長のもと、はじめての「教育勅語」捧読式が行われ、井上も参列した。さまざまの縁があり、教育勅語の解釈には皇漢学者の立場だけでは不十分で、西洋の知識も必要であり、それで自分が解釈者に選ばれたものと推察したと井上は回顧している。

 これで1つの謎は解けたことになるのだが、同時に、芳川文相が目的とした教科書づくりの限界も見えてくるのである。それが公的な解釈を確立することができず、『衍義』が教科書になれなかった理由かも知れない。

 明治天皇から勅語作成を命じられた芳川が考えていたのは「わが国忠孝仁義の道」であり、最初に文部省案を作成したのは啓蒙思想家の中村正直であった。井上毅が登場し、別稿を作る際には宗教性、哲学性、政治性が避けられたのはきわめて重要である。

 しかしできあがった教育勅語の注釈者として芳川が選んだのは井上哲次郎で、漢学と西洋哲学の両方に通じてはいたが、ドイツ帰りの興奮が冷めやらず、むしろドイツ仕込みの愛国主義に燃えていた。

 このことが勅語解釈に大きく影響していることは容易に想像される。教育勅語が「国家神道」の聖典だとして、戦後、そしていまも批判され続ける原因は、勅語の中身より、井上哲次郎流の愛国主義的解釈にあるのかも知れないと疑われるのである。


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