山古志、希望への再出発。中越地震3年合同追悼式──10月23日づけ東京新聞(2007年10月24日)
(画像は中越地震の震度分布図。気象庁HPから拝借しました)
東京新聞に、中越地震3年合同追悼式の記事が載っています。
〈http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2007102302058613.html〉
犠牲者の方々のご冥福をあらためてお祈り申し上げます。
さて、公機関が主催する追悼式は黙祷と献花による無宗教形式が主流になっています。これが政教分離にかなった方式だという考えが一般化しているということなのでしょうか。
歴史的に見れば、この形式は関東大震災後の東京府市合同の追悼式に始まるようです。一般に戦前は政教分離が確立されていなかったといわれますが、実際のところ、このブログ(メルマガ)でも何度も指摘してきたように、政府は「世界の大勢にならい、国家は宗教に介入せず」を方針とし、大震災後の追悼式も既成宗教の儀礼を採用せず、宗教者も関与しなかったのです。
たとえば、大正10年4月6日の大阪新報は、宗教法制定に関する粟屋謙宗教局長(のちの文部次官)の次のような談話を載せています(要旨)。
──新宗教法の制定はかなり前からの懸案であったにもかかわらず、手つかずのままに放置されていた。明治初年の「太政官達(たっし)」を援用して、何とか問題点を糊塗し弥縫するというのが実態だった。日々、変化し、発展する宗教を、あろうことか太政官時代の慣例、もしくは残骸とも称されるような規定で対処しようというのだから、無理が生じるのは当然である。そこで、明治三十年代に政府が宗教法を議会に提出したのだが、上院が猛反対し、不成立となったばかりでなく、少なからず痛手を負わされた。以来、政府は宗教法案を鬼門として遠ざけてきた。神道・仏教・キリスト教その他、多数の宗教を統括する新宗教法の確立に全力を傾けたい(「皇国」転載の記事から)。
つまり、明治以来、いわゆる国家神道体制どころか、まともな宗教行政の枠組みすらなく、枠組みをつくろうとする努力すら欠けていたのです。そのため行政の立ち後れを改善しようと、粟屋たちは新宗教法の制定を急いだのですが、法制化の中身は今日、一般常識化している「国家神道」のイメージとはほど遠い、「国際基準としての不干渉の原則」が基本とされました。
8月12日付の宗教専門紙「中外日報」に掲載された「国家が宗教に干渉するは世界の大勢にもとる、と文部当局は語る」と題された記事は、その事実を端的にうかがわせます。
「目下、宗教制度の研究調査を進めている。いかなる宗教制度を作るべきかの結論には到着していないが、とにかく国家が宗教に対して干渉するということは世界の大勢に反するものであるから、干渉方針を避けなければならぬ。欧米諸国の対宗教方針がますます自由解放主義となり、信教の自由ということがほとんど世界の通則で、わが日本においても明治維新後はだいたいにおいて不干渉主義であるが、今後はこの方針を徹底していくことが必要である……」
それから2年後の大正12年、関東大震災犠牲者を悼む公機関による追悼儀礼が無宗教で行われたのは当然の流れで、戦後のいまも無宗教儀礼は踏襲されています。
戦前と戦後が異なるのは、大正時代の宗教者が宗教色を嫌う行政と対立したのに対して、現代の宗教家が絶対的政教分離主義を唱え、反宗教的ともいえる要求を行政に要求していることでしょう。その矛盾に現代の宗教家が気づいているのか、いないのか。
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