所先生、焦点がズレていませんか──西尾・加地両先生「諫言」への反論を読む(2016年6月13日)
案の定ということでしょうか。
前号で「WiLL」6月号の西尾幹二・加地伸行両先生による「諫言」対談を批判しました。
8年前の西尾先生の「御忠言」のときには、当メルマガは10数回にわたって、かなり徹底して追及しましたが、当時からまったく進歩が見えません。
先生は「雅子妃問題」を、近代社会の能力主義と皇室の伝統主義との相克というワンパターンの図式で捉えている。しかし、そうではない。皇室は「伝統」オンリーの世界ではない、とあらためて批判したつもりです。
編集者にも読者にも原因がある、と指摘したつもりです。
ところが、メルマガの書き込みなどを見ると、どうも分かっていただけないようです。皇室は「伝統」の世界だと信じ切っている人が、やはり多いのでしょうか。けれどもそれは明らかに間違いです。
▽1 「伝統」と「革新」が皇室の原理
考えてもみてください。日本の宗教伝統である神社神道しかり、和服や日本食、木造家屋などなど、伝統オンリーならとっくに廃れているでしょう。
単に古いから意義があり、続いているのではなくて、現代的な意義を十分に兼ね備えているからこそ、いまも力強く光り輝いているのではないのでしょうか。
繰り返しますが、「伝統」オンリーではなくて、「伝統」と「革新」の両方が天皇・皇室の原理です。
明治の近代化の先頭に立たれ、戦後復興の先頭に立たれたのが、日本の皇室です。天皇が祭り主であることの重要性は、古い儀式の継承に意味があるだけでなく、それ以上に、現代的な意味が天皇の祭祀に見いだされるからです。
それを「伝統」オンリーと誤って信じ込めば、「伝統」対「近代」の図式で迫る「御忠言」「諫言」にまんまと引っかかることになるでしょう。
そして、実際、釣られてしまった読者が多いのでしょう。ネットなどで批判が沸騰し、編集部にも苦情が殺到し、そして事件が起きました。
しかし編集部は涼しい顔です。「賛否はもとより、じつに多岐にわたるご意見を賜りました。ありがとう存じます」と7月号の編集後記に書かれています。商業雑誌は売れてなんぼの世界ですから、読者の挑発に成功した満面の笑みすらうかがえます。
ただし、文明の根幹に関わる天皇論を商材にして、きわどいビジネスを展開することが望ましいのかどうか、は別問題でしょう。
▽2 わずか4ページの反論
さて、7月号に「加地・西尾両氏への疑問」と題する所功先生の反論が載りましたので、検討することにします。
西尾・加地両先生の「諫言」が載った6月号の発売日は4月26日です。所先生の「疑問」は記事によると、3日後の4月29日に執筆されたようです。
所先生が記事の冒頭で、碩学の対談にしては信じがたい内容にショックを受けたと打ち明け、「管見の一端を取り急ぎ率直に略述します」と説明しているように、わずか4ページの、急ごしらえの文章です。
内容的にも重厚とはいえません。その理由の1つは締め切りだと思います。
まず、「疑問」がもともと編集部の企画だったのかどうか、私は疑っています。新編集部にとっての創刊号となる6月号の編集段階では、西尾・加地両先生の「諫言」対談に対する反論が企画されていなかったのではないでしょうか。
前編集部の場合、入稿のデッド・ラインをギリギリまで引きずっていましたが、それでも印刷・配本の都合上、最終締め切りには限界があります。新編集部には「ギリギリ」はないかも知れません。とすれば締め切りはおのずと早まります。
所先生はご常連の筆者の1人で、締め切りについてはよくご存じのはずです。しかも、ちょうど大型連休中です。7月号に押し込むページ数も限られるだろうし、筆者が急いで書き上げられる枚数にも限界があります。
西尾先生らの「諫言」が16ページなのに対して、所先生の「疑問」がその4分の1しかないのはそのような編集上の事情によるものなのでしょう。
もしそうだとすると、編集者の姿勢も自然と透けて見えます。
▽3 4つの「疑問」
所先生の「ショック」は、西尾先生たちが「読者を誤解に導きかねない発言や、常識的にあり得ない非現実的な提言をも、あえて『諫言』と称し公表しているからです」。
そして「疑問」は、次の4点です。
1、「諫言」対談の冒頭で、編集部の司会者が「週刊文春」に載った、昨年の天皇誕生日の皇后陛下と皇太子妃殿下との会話を取り上げているが、実際にあり得たのか。宮内庁は事実誤認とHPで公表している。
2、加地博士は、神武天皇2600年祭で皇太子・同妃両殿下が神武天皇陵に参拝せず、皇霊殿に参拝するに「とどまった」と述べているが、旧皇室祭祀令に準じて、陛下に代わって祭祀を行われた。嫌みを言われるようなことではない。
3、加地博士は、「新しい打開策」として、皇太子殿下が摂政となり、皇太子はおやめになり、秋篠宮殿下が皇太子となるというような妙な提案をしている。皇室典範を改正しなければ不可能であり、非現実的な幻想に過ぎない。
4、同調する西尾博士は、「週刊新潮」の記事を持ち出し、天皇陛下、皇太子殿下、秋篠宮殿下の頂上会談で今後の皇位継承が決まったことに感銘したなどと語っているが、憲法解釈、皇室典範の原則を根本的に変更しなければ実現できない。内閣官房・宮内庁が連名で「厳重抗議」した「事実無根」の「暴走記事」を検証もなく論拠とするのはなぜか。
▽4 なぜ基本が失われているのか
所先生の「疑問」はごもっともです。しかし、2や3は論外として、1と4については、もともと当事者にしか知り得ず、事実かどうかはヤブのなかです。
私には先生の「疑問」が宮内庁関係者による反論のようにさえ聞こえます。そして、私にとって興味深いのは、「諫言」と「疑問」の焦点がズレていることです。
編集者や西尾先生たちにとっての「諫言」は、いわゆる「雅子妃問題」が焦点です。ところが、所先生は「雅子妃問題」にはほとんど目を向けず、お得意の分野である、宮中祭祀の祭式と皇位継承問題に話題を変えています。
所先生は皇室論のスペシャリストのはずです。正面から妃殿下問題と向き合い、皇位は世襲であり、徳治主義ではないこと、天皇は「上御一人」であって、皇太子妃が皇位継承するわけではないこと、皇室は近代主義と対立しないこと、つまり、皇室の基本原則をなぜ主張されないのでしょうか。
基本を誤っているからこそ、皇太子殿下のみならず妃殿下にまで「徳」を求める声が高まるのであり、あまつさえ「下船せよ」と命じるお門違いの識者まで現れ、さらに皇位継承に口を差し挟むようになるのではありませんか。
原則を誤っているから、皇室の「伝統」「祭祀」を知らずに、「伝統を守れ」「祭祀をせよ」と言い立てる博士たちが現れ、メディアがそれを煽り、議論は堂々巡りするのでしょう。
先生の反論が両博士の口をふさいだとしても、「雅子妃問題」は解決されません。両博士に同調する読者がたくさんいるからです。
それなら、なぜ基本原則が失われているのか、問題はそこであり、所先生にはその核心をぜひ考えていただきたいと私は願っています。