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上山春平「内廷の祭祀」論vs岩井利夫「国事」論──大嘗祭は「国事」? 岩井利夫の批判と上山春平の揺れ(2018年8月15日)

(画像は令和の大嘗宮)

▽1 「国務ベースでの大嘗祭斎行は不可能に近い」


 上山春平元京大教授は昭和59年11月21日づけの朝日新聞に掲載された、「皇位継承儀礼は京都で出来るか」と題する一文で、大嘗祭は即位礼とは切り離し、「内廷の祭祀」と解することを提案しました。

 上山先生の論拠は、先生の日本文明論にあります。先生のエッセイでは次のように説明されています。


(1)大嘗祭が皇位継承儀礼として制度的に固まった8世紀前後、日本は古代中国から律令制度を導入したけれども、ご本家とは異なり、太政官と神祇官が相並立する二官八省が採用された。

(2)この国家機関の二重構造のデザインは、明治期に、西欧の立憲制度を導入したときにも採用され、国務と宮務が二分され、国務法としての憲法と宮務法たる皇室典範とが同格の二本立てとなった。

(3)とすれば、即位式は国務、大嘗祭は宮務と解釈されてもよかったはずだが、両者とも皇室典範に定められた。でありながら、登極令が定められる段階では、大嘗祭は即位式と不可分に、国務的な観点で規定された。

(4)現行憲法下では、大嘗祭を即位式と一括して、国務ベースで行うことは不可能に近い。大嘗祭を存続させるためには、両者を切り離すほかあるまい。

▽2 大嘗祭は「太政官が取り仕切った」


 これに対して、岩井利夫元毎日新聞記者は『大嘗祭の今日的意義』(昭和62年)で、「上山氏がいう『二重構造のデザイン』の時代でも、大嘗祭は、国事をつかさどった太政官がとりしきった」と批判しました。


 岩井氏によれば、「延喜式」には「大臣勅を奉じて神祇官を召し、悠紀主基国郡を卜定」云々などとあり、関白、太政大臣以下、八省の役人総がかりで大嘗祭を執行した。二元構造が混乱したと見る方がおかしい。大嘗祭は古来、一貫して国事だった、というのです。

 神祇官は朝廷の祭祀を掌った官庁であり、一世一度の大嘗祭に関しては神祇官と太政官が共同して執り行ったということなのですが、問題は「国事」の意味と「国事」として執行することの是非です。

 岩井氏は「国事をつかさどった太政官がとりしきった」と解説していますが、正確にいえば、太政官は「国事」ではなく「国務」を司ったのであり、即位大嘗祭はそもそも「国事」であるがゆえに古来、国家機関が総力を挙げて取り組んだのでしょう。

 そればかりではありません、上山先生が指摘されたように、加茂川での御禊や大嘗宮の設営、大嘗会の標など、かつては国家機関のみならず、民衆が拝観もしくは参加し、官民一体で執り行われたのが即位大嘗祭ではなかったでしょうか。

下鴨神社の斎王代御禊の儀@同社HP


 国家機関たる太政官が執行に関わることが「国事」の意味ではないだろうし、上山先生が仰せの「二重構造のデザイン」と即位大嘗祭の挙行体制とは別問題だろうと私には思われます。

 ちなみに明治42年制定の登極令は、「(即位大嘗祭の)事務を掌理せしむるため、宮中に大礼使を置く」(第5条)と定めていました。大正、昭和の即位大嘗祭は特別機関の大礼使によって行われました。けれども、平成の御代替わりでは大礼使は置かれず、今回も前例が踏襲されます。民間の参加はとくにありません。

登極令@国会図書館



▽3 「国事として実施するのは不可能と考えるのは無理がない」



 一方、岩井氏は、上山先生が投げかけた皇室祭儀の法的位置づけ問題に関しては、同意しています。明治時代から問題になっていたし、以下のように、現行憲法の政教分離原則からいえば、神事としての大嘗祭を国事としては実施しがたいと考えるのは無理がないというわけです。

(1)伊藤博文は『帝国憲法皇室典範義解』で、「皇室典範は皇室みずからその家法を条定するものなり……臣民のあえて干渉するところにあらず」といっている。


(2)旧皇室典範は枢密顧問の諮問を経て勅定されたのに対して、現行皇室典範は国会の審議を経て成立した。

(3)旧皇室典範では、「皇室会議」は成年以上の皇族男子を構成員とし、これに内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長が参列するだけで、首相はメンバーではなく、議長は天皇が皇族中から指名することになっていた。
 これに対して現行典範では、皇族2人、衆参両議院の正副議長、内閣総理大臣、最高裁長官および同判事1名、宮内庁長官の10名で構成され、議長は首相である。

(4)旧典範は崩御直後の践祚を明示し、即位礼・大嘗祭が京都で行われることを定めていた。登極令はそれが秋冬の間に行われ、諒闇中は行われないことが明記されていた。
 一方、現行典範は一法令に過ぎない。占領下、神道指令の下に成立したため、大嘗祭はもとより、践祚について言及がない。即位礼と諒闇の関係についても示されていない。

(5)新旧皇室典範には大きな差があり、政教分離原則の趣旨を考慮すれば、現行皇室典範に大嘗祭について明文がないという理由だけでなく、大嘗祭は神事でもあるので、神道指令的感覚で見るかぎり、国事としての実施が不可能だろうと上山氏らが考えるのも無理がないといえる。


▽4 占領期の日本政府は大嘗祭の挙行を不適当とは考えていない



 しかし、即位大嘗祭を官民一体はともかくとして、とくに大嘗祭が「国務ベース」で、つまり国家機関によって挙行することは、現行憲法下ではどうしても困難なのでしょうか。

 上山先生も岩井氏も、現行皇室典範には践祚や大嘗祭の規定がないと仰せですが、占領前期、神道指令下で行われた皇室典範の改正過程において、政府は、皇室行事の体系はいささかも変わらない、大嘗祭について記述がないのは信仰面を含むことから明文化は不適当と考えられたからで、大嘗祭の挙行が不適当と考えられたわけではないと、国会で答弁しています。

 であればこそ、新憲法施行とともに皇室令が全廃され、宮務法の体系が失われたにもかかわらず、宮内府長官官房文書課長による依命通牒が発せられ、「従前の例に準じて事務を処理すること」(第3項)とされ、宮中祭祀の祭式は守られたわけです。

依命通牒起案書@宮内庁


 実際、昭和26年の貞明皇后の大喪儀は旧皇室喪儀令に準じて行われ、国費が支出され、国家機関が参与しています。

 このときの事情を、ある宮内官僚は「占領軍は、喪儀については、宗教と結びつかないものはちょっと考えられない。そうすれば国の経費であっても、ご本人の宗教でやってもかまわない。それは憲法に抵触しないと言われました」と内閣の憲法調査会で証言しています。

 占領後期の新憲法下で、皇室の祭祀が政教分離原則に抵触するとは判断されていません。大嘗祭が「稲の祭り」ではなくて、「国民統合の儀礼」であるなら、なおのことです。

 そうした判断が崩れ、祭祀の法的位置づけが変更されたのは、戦後30年、昭和50年8月15日の宮内庁長官室の会議です。

 このとき公務員たる侍従は特定の宗教たる宮中祭祀に関与できないからと、平安期に始まる、天皇みずから毎朝、御所で祈られた、石灰壇御拝に連なる毎朝御代拝の祭式が一方的に変更されました。当メルマガの読者には周知のことでしょうが、上山先生も岩井氏もご存じではないのでしょう。


▽6 大嘗祭=「内廷の祭祀」論から訣別


 岩井氏の批判は、朝日新聞に掲載された上山氏のエッセイに向けられていますが、すでにご紹介したように、上山先生の大嘗祭論はこれ1本ではないし、その後も一貫して大嘗祭=「内廷の祭祀」論で固まっていたわけではありません。

 平成元年11月に、政府の「即位の礼準備委員会」の求めに応じて行われた報告では、上山先生は、

「大嘗祭は、伝統的皇位継承儀礼の一環として、現行憲法の第7条第10項に該当する国事として挙行されるべき儀式である、と考えられる」

 と国事挙行論に逆に揺れています。さらに、平成の即位大嘗祭を秋に控えた平成2年1月、京都新聞に掲載されたエッセイでは、「内廷の祭祀」論から訣別しています。

「現行憲法が皇位の世襲を認めているかぎり、世襲に伴う儀礼は伝統的な形で継承されるべきだろう。大嘗祭を国事で行うか、それとも宮廷の公的行事もしくは内廷の祭祀として行うかは、さしあたり問う所ではない」

 繰り返しになりますが、「国事」とは何でしょうか。国家機関が主体となり、官僚たちが参与することが「国事」の意味なのでしょうか。


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