近代化で変質した宮中祭祀──涙骨賞落選論文「天皇とは何だったのか」5(2019年7月28日)
(画像は宮中三殿。宮内庁HPから拝借しました。ありがとうございます)
幕末・明治維新期は日本の宗教および宮中祭祀の一大転換点だった。
「諸事、神武創業之始ニ原(もとづ)キ」と謳う、慶応3年の王政復古の大号令の翌年には、祭政一致、神祇官再興が表明され、諸神社、神官らは神祇官に付属されるべきことが布告された。明治天皇は紫宸殿に神座を設え、天神地祇を祀り、五事の誓約(五箇条御誓文)を行われた。
僧形の別当・社僧の復飾が通達され、さらに「権現」「牛頭天王」など仏語を神号とする神社の改称、仏像の御神体、鰐口、梵鐘、仏具の撤去が布告された(『明治天皇紀』など)。
神仏分離令による年来の神仏習合の清算は、激しい廃仏毀釈へと転化した。いち早く嵐にさらされたのが比叡山延暦寺・日吉社(山王権現社)だった。
過激な廃仏毀釈の原因は何だったのか、辻善之助東京帝国大学名誉教授(日本仏教史)は、復古的革命的な気運と明治政府の方針とを挙げ、さらに遠因として、国学の勃興、排仏論の影響、僧侶の堕落を指摘している。
本来、神仏判然は仏教排撃を意味しない。明治元年の本願寺、興正寺などへの達には朝廷の本意は廃仏毀釈ではないと明示され、行政官布告にも神仏混淆禁止は破仏の意味ではないと弁明され、みだりに復飾を願い出ることが牽制された。他方でトラブルもなく、神仏分離がスムーズに実施されたケースもあるという(『明治維新神仏分離史料』など)。
だが改革はさらに続き、社寺領の上知が布告された。神社は「国家の宗旨」とされ、神宮・神社の神官・社家の世襲が廃された。宗門人別帳が廃止され、氏子取調に代わった。新生児は産土社で守札を受け、死亡後は返納された。天社神道(陰陽道)の布教が禁じられ、虚無僧の一派や修験宗が廃止された。托鉢が禁止され、女人結界が廃され、僧侶の蓄髪・妻帯は自由になった(『明治維新神道百年史』など)。
宮中の年中行事も激変した。
年始の金光明会、後七日御修法、正月8日の大元帥法、18日の観音供、2月と8月の季御読経、3月と7月の仁王会、4月8日の灌仏会、5月の最勝講、7月の盂蘭盆供、12月の仏名会など、皇室の仏事は明治4年をもってすべて廃止された。幕末の宮中では仏教や陰陽道などが複雑に入り交じった祭儀が行われていたのである。
一方で、以前は神嘗祭、新嘗祭、歳旦祭、祈年祭、賢所御神楽のほか四方拝、節折、大祓が定められていたが、天長節、紀元節、春秋の皇霊祭など、新たな祭祀が生まれ、石灰壇御拝は毎朝御代拝に代わった。端午、七夕など五節句は廃され、やがて宮中三殿が成立し、皇室祭祀が整備、確立されていった(前掲八束「皇室祭祀百年史」)。
宮中三殿が現在地に遷座された明治22年1月からひと月後、信教の自由を明記する大日本帝国憲法が発布された。アジアで最初の近代憲法だった。キリシタン禁制の高札撤去から16年、とりわけキリスト者の喜びはひとしおで、当時の新聞報道によると、記念の讃美歌を作る動きもあった。翌年には長崎で、日本・朝鮮両管区長の宗教会議と浦上の信徒発見25年祭が開かれ、聖体行列が整然と行われたという。
それだけではない。有史以来、漢字や仏教、雅楽など海外文化受容のセンターとして機能してきた皇室は、近代以後は文明開化の先頭に立たれ、キリスト教文化をもっとも積極的に受け入れられた。古代、仏教の外護者だった皇室は、近代においては赤十字運動などキリスト教の社会事業を物心両面から支援された。信徒の側近も増えていった。
22年には明治憲法制定と同時に、皇室典範が勅定された。皇位継承の基本が近代法として明文化された。41年には皇室祭祀令が、42年には登極令が制定された。
皇室典範は「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定めていた。明治天皇の思召しとされている(関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』、大正4年)。
東京遷都以後、京都の町が寂れていくのを天皇は嘆かれた。その後、ロシア皇帝の戴冠式が旧都モスクワの宮殿で行われることを知り、「大礼は古風を存し、旧儀のままに」と思われたことがきっかけになったという。
しかし叡慮は裏切られ、国家主義的な昂揚を内外に誇示するものに変質していった。
大嘗祭はかつて大極殿または紫宸殿の前庭に、悠紀国・主基国の国人が大嘗宮の儀の七日前に舗設し、数日間で仕上げられ、祭儀のあと焼却された。だが登極令以後、大嘗宮の規模はかつてないほど壮大になった。このため紫宸殿前庭では収まらず、仙洞御所の北側を拓き、設営されることになった。もはや古風、旧儀とはいえない。
江戸後期の桜町天皇の大嘗宮は東西16間、南北10間の柴垣をめぐらして設けられたが、大正の大嘗宮は東西60間、南北60間を板垣で囲い、建てられた。むろん数日で設営できるようなものではなくなった(岩井利夫『大嘗祭の今日的意義』、昭和63年など)。
また、近世の民衆にとって皇位継承の儀礼は、近代以後とは違い、身近なものだった。
現代人には想像しがたいことだが、近世の人々は即位式を間近で、自然体で拝観していた。明正天皇の「御即位行幸図屏風」(宮内庁所蔵)には、即位式の最中に、胸をはだけて授乳する2人の女性が描き込まれている。拝観者にはチケット(切手札)が配られたらしい(森田登代子『遊楽としての近世天皇即位式』、2015年)。
さらに哲学者の上山春平氏が指摘したように、悠紀国・主基国から都に運ばれた御料を大嘗宮に運び入れる標山や加茂川で新帝が行う御禊には見物人が殺到したといわれる(「大嘗祭について」=「神道宗教」神道宗教学会、平成3年3月など)。
つまり、近代化によって、御代替わりの儀礼は素朴な古風を失い、同時に民衆から縁遠い存在になっていったのである。なぜそうなったのだろうか。