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「秀吉の朝鮮出兵」その知られざる顛末──朝鮮に鉄砲と唐辛子を伝えた日本人(「神社新報」平成11年5月17日)


 前回に引き続き、文禄・慶長の役をとり上げる。

 韓国の金大中大統領(当時)によれば、13世紀、蒙古族は韓国を脅迫し、日本侵略の本拠地として利用した。韓日関係にヒビが入り始めたのはこのときである。14世紀には和冦が韓国を侵略、16世紀末には秀吉が朝鮮侵略を開始する。

 7年間もほぼ全土が踏みにじられた。送られてきた軍隊は5、60万で、そのやり方はすさまじいとしかいいようがなかった。韓国人は日本人を敵とみなすようになった。「壬申倭乱」は朝鮮にとって「有史以来最大の危機」であった(『獄中書簡』など)。


 たしかに戦争ほど悲惨なものはない。人々が苦しんだのは事実であろう。けれども、「侵略」と図式的に理解し、「侵略者」を観念的に断罪しようとすることに、抵抗を感じるのは記者だけだろうか。

 秀吉の時代と「日帝36年」の2回を除けば、親しい交流があった、という理解も単純すぎないか。史実に即して、実証的に、立体的に過去を検証する必要がありはしないか。

▢ 国土は広く、言葉は通じず
▢ 敗因は日本武将の寝返りか



 文禄・慶長の役のとき、毛利輝元は日本軍の総帥として4万の兵を率い、みずから朝鮮に渡った。

 輝元が国元に宛てた天正20(1592)年5月26日付の書状に、朝鮮での生々しい模様が記されている。

 まず、朝鮮側は存外に手弱く、一戦に及ばず逃げ崩れ、たちまち首都漢城(いまのソウル)に入ったとある。4月に釜山に上陸した日本軍は破竹の勢いで進撃し、5月には早くも漢城を陥落させた。輝元は5月18日には星州に入る。

 ところが、秀吉の渡鮮に備えて釜山から漢城まで11の宿泊所を建設し、その道筋を確保するという輝元の任務の前に、思わぬ障碍が立ちはだかっていた。

 それは朝鮮の国土の広さである。日本よりも広いと感じるほどで渡海した兵力だけでは治めきれない。各所に難所があり、大河川が横たわっている、と輝元は書いている。

 また、言葉が通じないため、朝鮮の吏民を労ろうとする気持ちが通じない。通訳や朝鮮の事情に通じた「物知り」がたくさん必要なのだが、それでも統治は困難であった。輝元らは民衆に「札(身分証明書)」を与え、「いろは」を教えて治めようとしたらしい。

 しかし朝鮮人は和冦の再来と思い込み、山に隠れ、半弓などによるゲリラ攻撃を加えてくる。10万の朝鮮軍を50人で追撃するという印象を輝元に抱かせた。

 幸いにも兵糧は十分であった。朝鮮には城が多く、それぞれに朝鮮国王の代官が配置され、租税米が保管されていた。

 しかし、朝鮮民衆は戦乱で飢餓地獄に陥った。飢えてまとわりつく物乞いを、輝元の軍勢は切り叩いた。それは「目も当てられぬこと」であった。

 秀吉が渡鮮し、漢城へやって来たら御座所の普請をどうやってしたらいいのか。この調子で明まで進軍するのは至難である。輝元の書状には、不慣れな異国での戦争の困難に直面し、途方に暮れる様子がよく現れている(北島万次『朝鮮日々記・高麗日記』)。


 当初、秀吉軍は連戦連勝であった。

 それもそのはずで、30万の大軍に対し、朝鮮の兵力はたかだか5、6万、明の援軍も10万といわれる。しかも日本軍には鉄砲があったが、朝鮮軍は弓矢しかなかったという。

 秀吉軍は釜山上陸から2カ月後の文禄元(1592)年6月半ばには無抵抗で平壌を占領し、救援に駆けつけた明軍を撃破する。

 ところが、その後、軍の勢いはピタリと止まり、やがて日本軍は敗退する。

 その理由を、秀吉軍に連れてこられた朝鮮陶工を祖先に持つ薩摩焼14代の沈寿官氏は、日本の武将が寝返ったためだと推理する。

 石田三成らは秀吉に書き送った手紙で、兵力の不足を訴えている。

 また、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、秀吉がみずから渡鮮するためという口実で全艦艇の引き揚げを命じたが、本当の目的は日本兵の逃亡を防ぐためで、いまにも乗船するかのように見せかける芝居を打った、と書いている。

 三成のいう兵力不足は逃亡者の続出が背景にあるのではないか、と沈寿官氏は考える。

 李氏朝鮮の正史『李朝実録』には逃亡兵「降倭」の実態が詳しく書かれている。朝鮮側に投降し、秀吉軍と戦った降倭の数は5、6000人ともいわれる(『NHK歴史発見7』)。


▢ 銃声に逃げ出す朝鮮人に
▢ 鉄砲を伝えた清正の家臣



 鉄砲伝来から50年、当時の日本は世界有数の鉄砲大国であった。他方、朝鮮は文を重んじ、武を軽んじるという文治主義で、鉄砲の音を聞いただけで逃げ出すような朝鮮軍は秀吉軍の敵ではあり得なかった。

 ところが、戦乱のさなか、いつしか朝鮮軍に火縄銃製造の技術が伝わる。加藤清正の臣下が朝鮮に帰順し、鉄砲を伝えたらしい。

 その名は金忠善。いったい何者なのか?

 伝記『慕夏堂文集』によると、日本名は沙也可(さやか)、朝鮮上陸直後に秀吉軍に反旗を翻し、投降後は降倭の大部隊を率いて戦い、軍功によって朝鮮国王から官職を受け、生命を賜るほどであったという。

 最大の功績はもちろん鉄砲を伝えたことで、朝鮮兵に銃の訓練を施し、火縄銃の製法を伝え、朝鮮軍の鉄砲隊誕生に寄与した。

 豊後から出兵した大河内秀元の『朝鮮日記』には、清正の家臣であった岡本越後守という武将が八千騎の大将となって現れた、と記述されている。

 小西行長のもとで戦った宇都宮国綱の軍功記には、阿蘇宮越後守という清正の配下であった降倭の武将が登場する。降倭の日本兵、朝鮮兵合わせて2000を率いて、秀吉軍と戦ったと記されている。

 沈寿官氏はこの岡本越後守と阿蘇宮越後守はじつは同一人物で、この人物こそが金忠善=沙也可ではないか、と推理している。

 そして阿蘇宮の名前から判断して、清正の領国肥後国の阿蘇神社に仕えた人物ではなかったか、沙也可とは最強の鉄砲隊として知られた雑賀(さいか)衆ではないか、と考える。

 戦国時代、紀州雑賀に住む雑賀衆はどの大名にも属さない独立集団で、種子島に伝来した鉄砲の技術をいち早く会得し、鉄砲隊を作り上げた。

 これに対して、朝鮮出兵の数年前、秀吉は大軍を送って、一向宗を信仰する紀州雑賀衆を攻め滅ぼした。そのあと九州に落ち延びた雑賀衆のなかには阿蘇神社の社家で、領主でもあった阿蘇氏に進んで仕官した者もあっただろう。阿蘇氏もまた秀吉と対立関係にあったからである。

 朝鮮に渡った雑賀は朝鮮側に寝返り、宿敵である秀吉への恨みを晴らそうとしたのではないか──沈寿官氏はそう推理する。

 秀元の『朝鮮日記』に、清正の蔚山(ウルサン)撤退の場面が記されている。

 悲惨な籠城を続ける清正の前に岡本越後守が現れる。講和を勧められ、清正は交渉の席に着くことを決意するのだが、交渉の前日、ふたたび越後守が姿を現す。

「明日、交渉の場に行けば命が危ない。謀略に乗らず生きて帰国してほしい」

 清正は忠告に感謝し、同時に越後守の妻子の無事を伝える。

「ただそれだけが気がかりだった」

 越後守は泣き濡れた。

 清正は命からがら蔚山を脱出する。日本軍の敗北は決定的となった。

 朝鮮の役が終わったあと、金忠善は慶尚北道達城郡嘉昌面友鹿洞(ウロクトン)に移り住み、やがて72歳の天寿を全うした。

 子孫の住む友鹿洞を、沈寿官氏が訪ねたことがある。

 村に近づくと、それまで自由奔放に曲がりくねっていた麦の畝が、まるで日本の麦畑と同じように、真っ直ぐに作ってある。これが性(さが)というものか、と沈寿官氏は感じたという。

 村はずれには金忠善を祀る書院が建っている。9年前には功績を称える記念碑が新たに建てられ、子孫が全国から集まったといわれる(『NHK歴史発見7』など)。

▢ 戦乱中に「倭芥子」が伝来
▢ キムチの完成は18世紀



 朝鮮は日本軍と明軍とによって、さらに自国軍と暴徒によって、国土を荒らされた。

 民衆は飢餓にあえぎ、多くが日本軍および明軍の捕虜となり、奴隷として売られた。親が子を、夫が妻をカネに換えた。

 悲劇というほかはないが、争乱は朝鮮の役後も激しさを増し、国力はいよいよ衰微した。

 というのも、明軍が日本軍の撤兵後も居座り続け、明は莫大な戦費を費やし、国力を笑門して衰亡するのだが、これに乗じて女真族が勃興し、朝鮮の北辺を侵すようになる。

 朝鮮は北の守りを固める必要に迫られたが、1636年には後金改め清の大宗が大軍を率いて侵入する(徳富蘇峰『近世日本国民史』など)。


 こうした時代を背景に、朝鮮では食文化の一大変革が起きる。唐辛子文化の確立である。だが、これを語るためには、朝鮮の肉食史を少しく振り返る必要があろう。

 4〜6世紀、朝鮮全土に仏教が広がると人々は肉食を忌むようになる。10世紀に成立した高麗朝は仏教国家で、支配階級や寺院では肉料理は姿を消した。

 しかし蒙古民族(元)が勢力を拡大し、13世紀半ばから朝鮮を1世紀以上にわたって支配する。肉食民族による支配は朝鮮民族の食生活を一変させた。食肉のタブーがなくなり、仏教伝来以前の肉食が復活し、定着する。

 さらに15世紀になると、李氏朝鮮は「崇儒排仏」政策をとり、肉食は完全に解禁される。

 美味しい肉料理に欠かせないのが胡椒である。朝鮮で胡椒が知られるようになるのは14世紀末で、それは琉球からもたらされた。

 胡椒は日本から大量に輸入されたが、16世紀初頭に日本人居留民の騒動「三浦倭乱」が起こると、日本との交流が途絶え、手に入らなくなる。政府は、薬用以外は川椒(山椒)で代用せよ、と奨励した。

 そんなときである。秀吉の朝鮮出兵が始まり、唐辛子が伝来するのだ。

 南米原産の唐辛子が急速に世界に広まったのは、コロンブスの新大陸発見以後である。温帯でも容易に栽培できるからである。

 東アジアに伝わってきたのは、キリスト教の伝来と関係があるらしい。日本には天文11(1542)年、豊後にポルトガル人によって伝えられた、とある文献には記されている。

 朝鮮の実学者李晬光が1613年に編纂した『芝峰類説』には、朝鮮半島には日本を通じて知らされたので、「倭芥子(ウェゲジャ)」と呼ばれる、と記述されている。


 日本では「七味」の1つでしかない唐辛子が、朝鮮では代表的な食材となり、豊かな文化を築き上げるのだが、それは一朝一夕にして成ったわけではない。

『芝峰類説』には唐辛子には大毒がある、と記されている。他方、戦乱で疲弊した朝鮮が高価な胡椒を輸入することは困難であった。なにしろ輸入の見返りに綿布や銀、大蔵経などがあてられるほどである。しかも国交を回復した日本は鎖国令を出していた。

 ここに胡椒の代替物として唐辛子が浮かび上がる。

 しかし唐辛子の栽培法が文献に現れるのは18世紀初頭になってからで、キムチ(漬物)に唐辛子を用いるようになるのは18世紀中頃、ピリリと辛い今日のキムチが行き渡るのは18世紀後半という。

 韓国・朝鮮の優れた食文化の代表であるキムチは、愚かな戦争が続く時代に、唐辛子の伝来・普及によって辛さを増し、完成されたのだった(鄭大聲『食文化の中の日本と朝鮮』など)。

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