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即位礼と大嘗祭を同じ月に行う理由──関根正直『即位礼大嘗祭大典講話』を読む 4(2017年10月16日)

(画像は令和の大嘗宮)


 大嘗祭は即位の礼のあとに、「続いてこれを行う」と、旧・登極令(明治42年)の第4条に定められていました。

登極令@国会図書館


 実際、大正の御代替わりでは、即位の礼は大正4年11月10日、大嘗祭は同月14日に行われ、昭和の御代替わりでは、即位の礼は昭和3年11月10日、大嘗祭は14日でした。

 そのため、御大典が行われた京都では、即位の礼のあと、市内はどんちゃん騒ぎとなり、静謐さとは無縁の喧噪のなかで、大嘗祭が挙行されることとなったと批判されています。

 日本国憲法の施行とともに登極令は廃止され、期日に関する定めは失われましたが、平成の御代替わりでは、即位礼正殿の儀は平成2年11月12日に、大嘗祭は10日後の22日に行われました。

 つまり、同月内に引き続いて行うと規定する旧・登極令に準じたことになりますが、なぜ同月に行われなければならないのでしょうか。


▽1 「京都においてこれを行う」


 以前、当メルマガに書いたように、赤堀又次郎『御即位及び大嘗祭』(大正3年3月)はこれを「新例」と説明しています(「即位の礼と大嘗祭を引き続き挙行する必要はない──平成の御代替わり『2つの不都合』 6」2017年7月18日号)。

 関根正直によれば、赤堀も解説していたように、即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行われ、即位の礼が8月以後の場合は翌年冬に大嘗祭を行うというのが、中古以来のならいでした。

 ところが、明治になって天皇が住まわれる宮城が東京におかれることとなり、しかも皇室典範(明治22年)には「即位の礼および大嘗祭は京都においてこれを行う」(第11条)と定められました。

明治の皇室典範@国立公文書館


 なぜそのようになったのか、関根は、先帝・明治天皇の聖慮によるものだと、次のように説明しています。

 ──明治13年、明治天皇は伊勢路御巡幸の折、京都に滞在された。当時の世相は、古風=旧弊とされ、破壊の対象とされており、殺風景没趣味に陥っていたのは京都も例外ではなかった。そのさまを御覧になった明治天皇はお嘆きになった。
 その後、ロシア皇帝(アレクサンドル3世)の戴冠式(1883年)が新都ペテルスベルグではなくて、旧都モスクワの旧殿で行われることを知り、一国の大礼は古風を存し、旧儀のままに行い、衆庶をしてその本を崇尚し、その始を忘れないようにするのがいいのだとお思いになり、皇室の大典も京都で行われるべきだとお考えになった。
 のちに岩倉具視贈太政大臣が京都御所の保存を政府に建言し、帝国憲法起草の準備として皇室の儀制調査を建議したのも、明治天皇の聖旨を奉じてのことだった。
 こうして明文規定ができた。


▽2 古例を復活させてはどうか



 しかし、御大典を京都で行うとして、旧例のように即位の礼が7月以前なら大嘗祭は同年冬に行い、即位の礼が8月以降なら大嘗祭は翌年冬に行うとした場合、どうなるのか、関根はまたこう説明しています。

 ──1年も経たないうちに2度も、車駕を移動することになり、儀鑾張行の繁に堪えない。供奉用度の費用も多額になるだろうから、古式に反しないかぎり、繁を避け簡に就くべきだと、明治天皇はお考えになり、即位の礼と大嘗祭はひきつづき行われる旨、登極令に定められることとなった。
 これらは憲法義解に註釈として書かれている。

 このように説明したうえで、関根は

「このたびの慶事は邦家の大典、国民の盛儀であり、国民みな感激狂喜するところであるが、熱情のあまり喧噪狼藉におよぶことが往々にしてあり、忌み慎むべきである」

 と警鐘を鳴らすのですが、現実は冒頭に述べたごとくでした。

 ところで、関根が指摘していないもうひとつの「理由」がありそうです。

 それは以前にも指摘した、今日とは異なる、交通機関の未発達です。明治末年なら新橋・神戸間が13時間かかりました。これでは「儀鑾張行の繁」もむべなるかな、です。即位の礼・大嘗祭を引き続いて執り行わざるを得ない事情がたしかにあったわけです。

 しかし今日では、東京から京都まで新幹線でわずか2時間余りです。しかも御大典を京都で挙行する法規定はもはやありません。即位の礼と大嘗祭を引き続いて執り行うべき理由はありません。

 だとすれば、むしろ古例を復活させてはいかがでしょうか。明治天皇ならば、どのようにお考えになったでしょうか。


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