「なんでnote始めたの?」ってやってみなきゃ分からないからに決まってんだろ。
つぶやき以外での初めての投稿。
スマホで文字打つのすら遅すぎる昭和ラスト人間の私。
シュ!シュ!シュン!って文字打つの(←語彙力のなさw )をようやく慣れてきたレベルのポンコツ。
昔々、数字連打の文字打ちは早かったんだけどなぁー
そんな私に全力で共感している方って実はたくさんいますよね?
機能は多いし自由度高すぎるし
特に子育て世代の方は、子育てにあたふたしている間に時代が進んでいて
もはや浦島太郎状態
漏れなくそのまた上の世代の自分たちの親だってそうだったはずです。
もちろん例外の方もたくさんいることは承知していますが、本当に浦島太郎状態のまま、時代について行けないまま年老いている人の多いこと多いこと。
みなさん、そうなりたいですか?
私は絶対になりたくない!そう思いました。
理由は大きく2つです。
老害になりたくない
子供の成長のため
1.老害になりたくない
「老害」ってなかなかパンチ効いた言葉ですよねー。っていつも思います笑
でも周りをよく見ると「老害」って感じることたくさんあったりしませんか?
「最近の若者は~」
「昔はこうだった」
いつまでも古いやり方を貫き、それが現代でも正解だと言い張る。
前例がないから「NO!NO!NOーーーー!!!」
若者からした邪魔でしかない!!
今「わかるぅぅ!」ってなった方、だいぶいましたよね?ね?ね!
それ、自分が言ってないか、客観的に見たことありますか???
言わないにしても、年下に似たようなこと思うこと多いですよね?
それって実は結構当たり前で
長く生きていて経験を積んでいるからこそ
自分の方が出来て当たり前と思い込んでしまう。
そして、経験したことでしか計ることができない。
さらに変化が怖い。
これが 害 を産むわけです。
そして、我が国は良くも悪くも、制度がしっかりしていて、何事においても世界で珍しいくらいに国民の背負うリスクの少ない国です。
社会保険がしっかりしていたり、退職金の出る会社が当たり前なくらい多い。(アメリカは退職金制度はない。)
国の制度や、会社のおかげで、ある程度のリスクすらも必要なく、何かチャレンジすることもなく、生きれてしまうのがこの国です。
チャレンジ経験が圧倒的に少なすぎて、従来通りを代々何十年と引き継がれてしまう。
ようは
自分もチャレンジしていかないと
あの「老害」になるよ
ってこと。
良く言えたとして「ちょっと新型の老害」
今年生まれた赤ちゃんが18歳の成人になったら、新しいことにチャレンジしない、今までのままでいい、という人たちは18年アップデートしてないパソコンやスマホみたいなもん。
つかいものになる???
今から18年前のスマホってどう?
って言おうと思ったけど
ガラケーだった。
とにかく現代で使うのキツイですよね。
使えないこともないけど、これが新しいデバイスにマウントとってきても
は?
ってなりますよね?笑
人間にも言えることです。
私たち人間もアプデできます!
いつからでもできます!
ただ、変化を怖がり言い訳ばかりしていたらできません。
まずは小さな変化から。
変化やチャレンジを繰り返すとチャレンジすらも当たり前になります。
チャレンジの大きさを少しずつ上げて行くと、恐怖心もかなり減ります。
具体的には
いつも買わないジュースを買う
見ているだけだったSNSを投稿してみる
入ったことのない店に入ってみる
など、こんなにも小さいNOリスクのものからやってみるだけでもいいと思います。
続けているといつの間にか、変化が当たり前になりますよ。
そうすると、若者たち、子供たちの考えやチャレンジを受け入れる耐性がついてきます。
そして、最初は不便でも、新しいを受け入れることで経験値を上げ、新しいを当たり前にしていく。
変化は怖いし、新しいはちょっとめんどくさいけど、やってみなきゃ自分が古くなっていくので、私は老害にならないためにも、自分のためにも、変化を受け入れていきたいと思っています。
2.子供の成長のため
私には子供が2人います。
子供を産んで親になって感じたことがあるんですよね。
人間育てるプレッシャー凄っ
子供は勝手に育つとは言いますが、
確かに良いか悪いかは別として衣食住がなんとかなれば大人にはなれます。
でも、どんな生き物も親や周りを見て育つのです。
まねをすることで覚えていくのです。
子供が親の話し方とそっくり!
とか
歩き方がそっくり
とか
あれって、めちゃくちゃ見て聞いてインプットしてアウトプットした結果なんですよね。
その家々の常識が出来上がるのも、子供にとっての世界が産まれてから一番長く過ごすその家だからです。
だから、学校に行って他の人の常識にふれ、ぶつかったり、家って変なのか?!って思ったりすることもあるわけです。
親はいわば神、教祖、そんな感じなわけです。
特に小さければ小さい程、親を盲信します。
私、この子たちの神じゃん。
こんな神盲信してたらダメじゃない?
どうせならいい方へ導く神になりたくない?
って思ったわけです。
親の背中がその子に与える大きさを考えるなら、自分が成長していればいい!
とてもシンプルな考えです。
蛙の子は蛙なら
蛙の成長がとまれば子蛙も概ねそのくらいに育ち、スーパーな親蛙の子は見ている背中がスーパーなのが当たり前なので、スーパー子蛙になる可能性が高いというわけです。
だったら、親である大人が知識や教養を増やせば子に伝えることができるし、何事にもチャレンジする姿を見れば子もチャレンジのハードルが下がります。
自分の知っていることしか教えることができないのだから、自分のレベルを上げることが子供の成長へつながるのです。
ちいさな実例を上げるなら
私は食べれないほど嫌いな食べ物は今のところありません。食わず嫌いはありません。
なぜなら、苦手なものも出てきたら一口は食べるを続けてきたから。
いつの間にか苦手が普通くらいになっていた。
そんなエピソードがあります。
もしかしたら今回は美味しいかも!
と苦手チャレンジを今でもしています。
我が子にもこのエピソードを伝えながら
「ママはこの食べ物苦手だよ。でも食べるよ。だって今日は美味しいかも知れないもの。」
と食べます。
するとこどももだんだんと苦手チャレンジが当たり前になり、
「やっぱり好きじゃない!でも食べられるよ!」
と嬉しそうにたべるのです。
きっと私が嫌いは食べないと決めていたら、子供はわざわざこんなチャレンジしないんじゃないかな?と思います。
反対に、知人で食わず嫌いが多い方がいます。
漬物が全般苦手で
一見漬物に見えないものでも
「漬物」
というワードだけでとたんに食べられなくなるそうです。
理由は
幼い頃に漬物の見た目がおいしくなさそうで食べなかった。そのまま大人になった。
特に梅干しは、大人たちが
「すっぱいよ~すっぱいよ~」
と言いまくりなんだかこわくなり食べないまま大人になった。
そんな感じです。
ようは、大人がどう伝えるか、どんな姿を見せるか、どう促すかが結構重要だということです。
この方の場合、チャレンジの機会を長いこと失い、この食べ物へのハードルがめちゃくちゃ上がっているので、ただ食べることがかなりこわいと思います。
このエピソードは食べ物でしたが、物事はチャレンジすることでハードルがどんどん下がります。
まずはやってみる姿を見せれたら、子供のチャレンジのハードルは下がると思いませんか?
しかも自分がやったことのあることなら、もっとハードルはさがりますよね?
私は子供の成長のためにも、新しい物事に目を背けずやって見ようと思います。
まずはここからですね!
大変読みにくかったと思いますが、最後まで見ていただいた方、本当にありがとうございます!
ここまで書くの本当に大変でした!
一万字とか書いている人とか尊敬!!!
でも、やってみると見えてくることたくさんあってワクワクです。
次回はもっと使いこなせるようになりたい!
ただ見ているだけの方、発信がスタンダードになりつつある現代、一緒に成長してみませんか?
ではまた!!
ᆢひとりごとᆢ
メタバースが気になるからクラスターやってみたけど未だにわけが分かっておりません!!!
メタバースの時代がきたら乗り遅れたくない!