米津玄師「馬と鹿」「カムパネルラ」MV比較 他

※敬称略

馬と鹿とカムパネルラ

「馬と鹿」「カムパネルラ」は共に米津玄師の楽曲でありどちらも動画配信サイトにMVが投稿されている。
「馬と鹿」は 2019/09/03 投稿、「カムパネルラ」は 2020/08/04 投稿なので、カムパネルラのほうが一年ほどあとの発表となる。
その前提でこの二つのMVを続けてみると、「馬と鹿」のMVで最後、米津玄師は一人青い夜明けを思わせる時刻の海辺にたどり着き、カムパネルラではそれと同じような海辺で歌ってるところから始まっているので、繋がりがあるように感ぜられる。
と言ってもわたしがそれに明確に気づいたのは後になって検証する為に続け様に見てからだ。
そもそもわたしはBremenあたりで一度米津玄師から離れており、2020年冬頃まで意識的に米津玄師を避けていたから、発表当時をリアルタイムで追うことは出来なかった。
なので後から追って「馬と鹿」のMVや「カムパネルラ」のMVを観たのだが、両MV共に初見の時点で誰の目にも印象深い存在があり、その存在の対比が私にこの両MVの繋がりを意識させるに至った。
それは米津玄師の後ろにいる人々だ。
馬と鹿に登場する人々は本当に狂気の沙汰で誰の目にも印象的に映ると思うが、私はにはそれがlemon以降の米津玄師の俄ファンに見えた。
一方カムパネルラに登場する人々はその歌詞も相まって、私のような「古参を自負するファン」に見えた。
馬と鹿に登場する人々は現行社会の服装であり、カムパネルラに登場する人々は古風な服装をしている。
そして馬と鹿に登場する人々は米津玄師に無遠慮にベタベタと触り群がる。
一方カムパネルラに登場する人々は米津玄師には決して触れることなく静かに周りで儀式めいて祈りのようなものを捧げている。
祈りを捧げるのは米津玄師の敬虔な信者だからであり決して触れない騒ぎ立てない一歩引いたようなスタンスだ。
馬と鹿のようにベタベタと触れたがるのはミーハーで無礼な俄ファンであり、米津玄師に触れたというアチーブメントが欲しいだけで、米津玄師が歌っていても気にせず、米津玄師がどう感じるかなども関係なく、米津玄師を人間扱いしていないのである。
その点で言えば、米津玄師を過度に神格化するのもやはり本物の米津玄師など見てはいないのであるのだが。

自分は「マトリョシカ」(2010/08/19)はおろか「結ンデ開イテ羅刹ト骸」(2009/07/06)よりも前、「THE WORLD END UMBRELLA」(2009/06/25)が米津玄師ことハチとのファーストインプレッションであったので、今から数えればそれなりに古参であると自負している。
ニコニコで米津玄師が今で言うバズを見たのは羅刹と骸からだと思うので(傘もかなり再生はされていたが、当時のニコニコボカロ界隈では並の再生数という印象だった。)、一応は話題になる前から知っていたと古参ぶれると思っている。
しかし米津玄師には学徒の頃のバンド時代などもあるし、別のアカウントで投稿したと本人が主張している30曲くらいの歌唱曲を知らないし、現存するハチの最古の投稿曲である「お姫様は電子音で眠る」(2009/05/20)からですらないわけだから、どうしたって最古参とは言えない。
それでもまあ、古参の自負があるのだ。
そして新参を嫌う老害のような性質があり、どちらかといえばカムパネルラ側の、本人からは離れつつも神格化しているような類の自称ファンのただの一人である。
それが他者から見れば恐らく滑稽で矮小だろうことは想像に難くないが、現にわたしはそういうスタンスで米津玄師となったあとのハチを追ってきた。
まあそれはいいとして、大事なのは羅刹と骸で米津玄師はニコニコでの知名度を一気に上げたと言う当時の空気感だ。
それを体験しているから、カムパネルラで着物集団が出てきて、歌詞で「わたしのことだ!」となってる私がそれを羅刹と骸を意識して着物なのでは?という連想に至ったことをここで触れておく。

さて。
冒頭でも触れたが、馬と鹿の終盤、米津玄師は夥しい狂気的な群衆の抜けて、一人海辺にたどり着いて終幕となる。
そしてカムパネルラでは海辺から始まるのだが、カムパネルラの米津玄師は終始海辺で「一人っきり」で歌っているシーンばかりだ。
着物集団が歌ってる米津玄師の周りで祈りのよつな踊りをしているのは僅かワンカットであり、それ以外は海に向かって又はカメラに向かって一人で歌っているように思う。
そこには馬と鹿のようなファンはいない。
仮に着物集団が羅刹と骸辺りからの古参ファンを意識したものでなかったとしても、それならば狂気的な集団とは異なるタイプの「残ったファン」なのであろう。
ここまでMVに出てくる集団について着目してきたが、カムパネルラのMVには他にも登場人物がいる。
それは木々流れる車窓の列車のようなものに乗った一人女性である。
彼女は米津玄師と行動を共にしていない。
せいぜい着物集団が「彼女の往く方向とは逆、元来た道へ向かって列を成していく」のを車窓から見かけるくらいである。
着物の者達が米津玄師と合流したようにみえるのはその後なので、着物集団は米津玄師の元へと向かっている最中、彼女とすれ違ったように見える。
着物集団が向かう先に米津玄師がおり、そこから着物集団が来た方向へ進む彼女はつまり、米津玄師から刻々と離れていっている存在なのだ。
米津玄師のいる海辺と、わざわざ木々が走る車窓というものがMVの最初に映るのは、彼らが位置的に異なることを印象づける為だろう。
彼女と米津玄師が関係あることは、米津玄師の黄金に光る手と、彼女の黄金に光る涙によって強調されている。
米津玄師から離れていく彼女は何者か。

一つは離れていく古参ファンの一人であろう。
彼女は着物集団に反応していた、だから羅刹と骸を知る人物で、米津玄師からは刻一刻と離れているけれども、それを忍んで涙をしたのだろうか。
この説を感じさせる要素はMV映像だけにあらず、歌詞中にも見てとれる。
カムパネルラでの歌詞「この街は変わり続ける 図らずも君を残して」は「昔の米津玄師の方が好きだった古参ファン」への皮肉にも似たメッセージともとれる。
米津玄師がラブソングなどで使う頻用二人称は「あなた」であるが、カムパネルラでは「君」である。
サビに出てくる人称も「あの人」という呼称を使っている。
それは米津玄師がラブソングで歌うような「あなた」たる存在について歌っている歌詞ではないことを暗に仄めかしていると感じる。
サビの終わりの歌詞
「君がいない日々は続くしじまの中一人」
というのも、真の理解者を勝手に自負しつつも現米津玄師に対しては一歩引いた冷めたスタンスを取る私のような気持ちの悪い古参ファンに対するファンサービス的な歌詞にも見える。
というのは一つの説である。

さて他方。
それは実際に米津玄師から離れた女性、例えば元カノなどを表しているのではないか、というもの。
当然表にこそ出てこないが米津玄師にはハチ時代もdioramaの頃もYankeeの頃も彼女がいただろうと思われる。
(でなくてあんなチェリーボンボンがどうとかいう歌詞が書けるならどうかしてる。)
また同様に、メトロノームの「生々しいテンポのズレ」やらneon signのような「半ば肯定的かつムシャクシャした感じの別れ」みたいな感覚はやはり、実際の恋愛体験によって齎されると感じるので、やはり別れも体験してきたと思われる。

ちなみにneon signには「君」も「あなた」も登場せず、メトロノームでは「あなた」と言っている。
しかしもっと昔、前途の傘やChristmas morgueの歌詞などでは「君」と言っている。
この頃は単純に「あなた」という二人称を使うに至っていないだけだと思うが、それより未来に投稿されているカムパネルラには敢えてその頃の「君」という人称を持ち出すということが可能である。
Aメロの「君」は兎も角、サビ終わりの「君とやらについては、古参ファンなどではなく別れた元カノの誰かの可能性があるだろう。
そもそも米津玄師の彼女になるので、あれば米津玄師の作品が好きな可能性が高いのではやいか。
ならば「米津玄師の昔の元カノ」は、「米津玄師の古参ファン」という属性を持つし、「米津玄師の元理解者」という側面も持っていると思う。

他の可能性があるとすれば…wowaka、のことなのかもしれない。
wowakaはボカロPであり「ローリンガール」や「ワールズエンドダンスロール」「裏表ラヴァーズ」など多数の人気曲を生み出した人物で「ヒトリエ」というバンドもやっていた米津玄師とはかなり交流のあった故人である。
wowakaが亡くなったのは2019年4月5日であるから、その後に投稿されたカムパネルラなどにはその意図が含まれていても時系列的にはおかしくない。
また「感電」(2019/09/03)の2番サビ終わりにも関連を感じる下記のような歌詞が出てくる。
「お前がいなくなった朝より こんな夜の方がまだマシさ」
実はそれぞれが別の対象を指しているかもしれないし、こういうのは受け取り手が受け取りたいように受け取れるように作為的に作詞されているだろうというのもあり、真実は本人にしかわからないが…。

カムパネルラの米津玄師の黄金の手については言及するまでもないだろう。
歌詞でも「あの人の言う通り 私の手は汚れていくのでしょう」と歌っている。
ところで馬と鹿のMVを見てみるとその両手で燃え盛るゴブレッドを掲げていたのは米津玄師本人であろうか。
ゴブレットの陰となっていて顔がよく見えなかったが、その後のシーンで手に包埋のようなものを巻いているのが見受けられる。
そもそも燃えている時計はなんなのか…clock lock worksは関係あるのかないのか…などもまあそのうち気が向けば書いてみようと思う。

カムパネルラは私のようなファンからすると自分のことを歌われているようで刺さる歌詞であった。
カムパネルラと言えば銀河鉄道の夜の登場人物名を連想しこそすれ、わたしは銀河鉄道の夜を意識的に未だ読んでいないので、その切り口から考察することはできない。
ただ目にしてしまった情報で主人公の親友らしいとか居なくなる?みたいな話は持っているので、そこからすれば彼女などというよりはやはり親友、友達に向けての歌なのか。
するとやはりwowakaなのだろうか。
米津玄師で宮沢賢治というと「恋と病熱」のように「歌詞に関係はないけど語感が好きだから拝借させていただいた」前例があるのでどこまでアテにできるのかがわからないが、米津玄師が古参ファンを親友に準えているのであればそこで歌うカムパネルラは古参ファンのことなのであろう。
だが書くに従ってどうもこれはwowakaか、我々の知らない、米津玄師がTwitterで本田圭佑のツイートに反応した時にポロッと書いていた「自殺した友人」のどちらかについての歌だろうか。
ただ後者については「neighborhood」で既に歌っているようにも思われるので時期的にもwowakaのことなのではないか。
とは言え私も米津玄師を熱心に追っかけているわけではないので私の知らない別の人物なのかもしれず、それこそ他の個人的な交友関係の誰かかもしれないし、どっかのインタビューで本人が答え合わせをしているかもしれない。
ただそれらを探そうとはまだ思えないし今はwowakaのことなのだと思う。
カムパネルラの歌詞にはリンドウやボタンの花の名前が出てくる。
前途のChristmas morgueでアネモネ、砂上の夢喰い少女ではブーゲンビリアなど、米津玄師はやたら花を歌詞に使うしその花言葉を関連づけるのが好きらしいからそこらへんの花言葉の意味から考察するのもアリだと思う。
馬と鹿でも「呼べよ花の名前を」とか言ってるし。
馬鹿にしてんのか?
マトリョシカの解釈のしようによっては歌詞解釈班ひいてはリスナーを馬鹿にする癖がある作詞家ということになるのであながち間違っちゃいないが、なんてね。
しかしwowaka追悼という観点で見ると海辺というのが意味を持ちそう
「海と山椒魚」という曲の歌詞には「ひまわり」が出てくるのだが、のちに「ひまわり」と言う曲を出していてそれがどうにもわたしにはそれこそwowaka追悼曲にしか思えなかったので、そう言うつながりがあるのか?
米津玄師がwowakaとどれだけ親しかったかわからないがもしもその全てがwowakaの死を意識した歌詞なのだとするとどんだけ衝撃を与えたのか計り知れない。

「ひまわり」

米津玄師の楽曲の一つ。
2020/08/05アルバム収録曲。
個人的にwowaka追悼の曲だと思っている。
曲名のうららかあたたかなイメージに反していきなり悲痛なギターから始まり、歌い出しも「悲しくって蹴飛ばした地面を強く」である。
先述したが米津玄師で「ひまわり」といえば「海と山椒魚」(2014/04/23)という曲を連想する言葉である。海と山椒魚の方もやはり別れ、それも死別かそれくらいの絶縁を思わせる歌詞であり、米津玄師にとって偲ぶ時の花がひまわりなのかもしれない。
ひまわりの花言葉は憧れや崇拝らしい。
海と山椒魚まで無理やりwowakaと紐つけるのであれば、別の道を行くことになった友への想いのような歌だったのかもしれない。
ただ草葉の露を数えたり忍び歩いたりさよならも言えぬまま報せも残さず去り退いたのであれば、やはり前途の自殺した友人なのかもしれず、米津玄師にとって友人もwowakaも憧れていた存在なのかもしれない。
ひまわりの歌詞を見ると「転がるように線を貫いて」の転がるとか線を貫くというのはwowakaの楽曲を連想させるし、「散弾銃」とか他にも多数wowakaを連想させるワードが多いのでこれはほぼ確実にwowaka追悼の曲であろう。
「海と山椒魚」では「2人で植えた向日葵は唐に枯れ果ててしまった 照り落ちる陽の下で1人夏を見渡した」とあるが、「ひまわり」では「日陰に咲いた向日葵が今も夏を待っている」とある。
また他にも「海と山椒魚」では「今なお浮かぶその思い出は何処かで落として消えるのか」とある一方「ひまわり」では「傷ついて静脈を不意に巡るエレキ 掻き毟って吹き荒び鳴る哀歌(エレジィ) 聴こえているあの時から少しも絶えぬまま 震えるほど全て消えないぜ」と言っている。
そもそも「ひまわり」が収録されている「STRAY SHEEP」というアルバムは個人的に「Yankee」という「海と山椒魚」が収録されているアルバムをかなり意識したアルバムだと思っており、「ひまわり」はいわば「海と山椒魚」枠というか、意図的に意識して寄せているのは間違いないと思う。
「ひまわり」の2番サビで「日陰に咲いたひまわりが今も海を見つめている」とかもろ海って言っているし、「海と山椒魚」では「俺」は「のろまな山椒魚」らしく、つまり歌われてる方は「海」である。それに「伸びゆく陰を背負って」とか「岩屋の陰に潜み」いう歌詞が「海と山椒魚」に登場するが、「ひまわり」の歌詞で何度も「日陰に咲いたひまわり」と態々連鎖せる単語を他にも強調しているので確実だろう。
で「ひまわり」のその部分の歌詞を改めて一文で続けて書いてみると、wowakaが亡くなってからずっと鳴り続けて消えないらしいから、感電からこのかたずっとwowakaを意識した歌詞が続いていたとしても不思議ではないほどのショックを受けていると読み取れる。

「Yankee」と「STRAY SHEEP」

米津玄師の2020年のアルバム「STRAY SHEEP」は2014年のアルバム「Yankee」、ひいては2012年のアルバム「diorama」を意識したアルバムに思える。
まずジャケットだが「Yankee」のジャケットでは鹿のものと思われる頭蓋骨が正面を向いているのが印象的だが、「STRAY SHEEP」では羊の頭蓋骨を被った推定男が左向きで口を開けているように見える。
デザインの世界では左向きは戻るだとか過去という意味があり、右向きが進むとか未来という意味があるというのを目にしたことがある。
身近な戻るボタルや進むボタンしかり、シークバー然り、2D横スクロールゲームしかり、割と身近にありふれているデザインの概念らしい。
その情報を持っている状態でSTRAY SHEEPのジャケットを見ると男は左向きなので、過去を向いているんだと思うんだ。
で頭蓋骨を被ってるわけだけど、砂の惑星のMVに出てくる米津玄師のフォロワーみたいな連中は動物の頭蓋骨の面らしきものをしているんだよね。
主にYankeeとかの影響なのか昔の米津玄師って動物の頭蓋骨のイメージがあるんだよね。
あとポッピンアパシーみたいな歯と目が印象深く描かれた顔、まあそっちはいいや。
頭蓋骨を被っているからこの男は米津玄師のフォロワーなんじゃないか、そして過去を見ているから懐古厨であり体には米津玄師のファンらしく色々と関連するものを身につけている。
HYPがなんなのかはよくわかんなかったんで検索してみたらHYPEってツアーがあったらしい。でもEとかないし、しかしよくみると隠れてるだけでなんか書いてあるっぽい?そのHYPEのツアーの画像でも何でかEが離されている。なんでやろうね、これがヒントなんすかね?知らんけど。
その検索の道中でこの男が米津玄師本人であるとする意見を見かけたが私はそう思わない。
この男は米津玄師になりたい、また近づきたい、息も絶え絶えの迷える羊であると思う。
よく「迷える子羊たちよ」というように、迷える羊はキリスト教を連想させる言葉なわけだけど、米津玄師とキリスト教は前々から折に触れて関係があったと言える。
「Christmas morgue」もあるし、「amen」やら「LOSER」はもろダンテの「神曲」に関係する曲だし、そもそもデビュー曲が「サンタマリア」なんだから。
そんで度重なる歌詞での「ハレルヤ」使用。
米津玄師がキリスト教的な概念、言葉を頻用するのは昔からだってこと。
「ゴーゴー幽霊船」での「ペーパーバッグ」だのneighborhoodでの「バーバラアレン」だのアルバム名の「Yankee」にせよ「Bremen」にせよ、いつも米国めいているというか、英語圏の香りが付き纏っている。
英才教育とまでいかずとも、そういうのが当たり前に流れてたり、蔵書があるという、そういう環境で育ったのではないかという推察はある。知らんけど。
まあいいや。
米津玄師で羊といえば「ああ、それ、ね」という感じであり「ワンダーランドと羊の歌」しかり「Black Sheep」しかり、昔から羊に関係する曲は出してきてるし関心があるというか、特別視していることが伺える。
話が逸れてるついでに断っておくが、例えばとある文学作品を題材にした楽曲があってもその文学作品を知らないと紐解けないように、米津玄師の理解をするには彼がそれまで触れてきた作品群全てに触れないことには難しいことであると思う。
逆に知ってさえいれば簡単にわかるものかもしれない。
例えば「Big Brother」という文字列を見ても何も知らなければ「大きな兄弟…?」となるが、少しでも知っていれば「ディストピアな感じ…?」ぐらいにはパッと思い至る情報が増える。これぐらい有名な言葉なら検索すれば誰かが書いた情報が残っているがマイナーになっていくほど検索してもコンビニエンスかつインスタントには情報に有り付けないようになっていく。そうして間違った前提のまま推論を推し進めたりして都合のいいように曲解し誤解する。
或いは偶然作者の意図にたどり着けるかもしれない。
しかしてそれらは同時にりその程度のこと」だといえる。
このような記事のそものの自己否定になりかねないが、解釈ができたからといって「だからなんなの?」というのは熱中しているもの病みつきになっているもの以外には常にある。
そういう外から見た滑稽みを笑いたい心理にも幾許か共感の余地があるというか…話が逸れまくってるからここらでやめよう。
つまり、自分こそが米津玄師の真の理解者だというきしょい妄想は努努手放すことだ。
わたし自身、自分の感じたこと思ったことを書いているが、これが絶対の正解だとか真理だとかは思っていないし…。
増して米津玄師のことは好きとか嫌いとか愛してるとか云々などというミーハーやただのガチ恋みたいな人達とか推しという病に染まっている女性方とは根本的に異なる心理というか…。
14年前から意図せず染みついてきてしまった根深い毒のような呪いのようなアイデンティティの一部になってしまっているようなもので、正直手放せるなら手放したい。根深過ぎて無理だけど。これを読んでくれている米津玄師ファンがもし億が一いたら俄かに牙を剥くようで申し訳ないけど私は他の米津玄師ファンがあんまり好きではない。愛してるとかライブで叫んじゃったり米津玄師の絵を見て画家が挫折するとか書いちゃうくっそきしょい女性ファンとか吐きそうになる。米津玄師の曲や絵は優れているが米津玄師を持ち上げる為に知りもしねー知る気もねえ他のアーティストを下げるその精神性は個人的に吐き気を催す邪悪の一部であってだな。
まあわたしは父親嫌い故その遺伝子を残さないイコール女性に嫌われてもいいという精神性でこのノートをやっているから万が一あなたが女性または女性の方を持つ男性その他である場合にはその心の声に従いわたしを嫌い気色悪がりこき下ろしてくれたまえ。
妄想が過ぎた。
話を戻そう。
戻る話がなかった。
てかめんどくさくなった。
また思いたったら加筆する。

「旅人電燈」と「砂の惑星」

「ボクは古い電燈 砂漠の真ん中で一人」
というのが旅人電燈の歌い出しである。
米津玄師は砂の惑星やらナンバーナインやら、砂に満ちた景色に魅せられているようであるが、
旅人電燈の頃より強くなってる感じがするが
それが米津玄師自身の心情の変化なのか
お得意の誰かの心情を歌ってるのかは確定不能
旅人電燈はかつてはニコニコ等で栄華を極めた者の心情を代弁してるつもりかもしれないが砂の惑星はかなり米津玄師の本音に近い曲でないか
電燈はいくつ消えてしまった?
今も灯っているのはどれだけだろう



チェリーボンボン

Yankeeの二曲くらいで出てくるお菓子の名
具体的かつそこまでシンプルでないなものを二曲にわたって使うことで
「当時付き合ってた彼女がよく作ってたの?」
みたいな想像をさせる分リアルティが上がる効果があるか?
狙ってやってたらスゲーね


なんだっけ。
思い出したら書くわ

あなたに会いたい

これも度々使ってる
聴く者に米津玄師が直接わたしに語りかけてるかのような錯覚を起こさせるファンサみたいな何か
元気な人は頑張って会いに行くといいと思うよ
勿論それはライブに行くって意味じゃなく
カスみたいな曲を沢山屍にしてでも追いつくように出し続けて勝って会いに行くってことなんじゃない
知らんけど
米津玄師が何を考えてるかなんて米津玄師しかわかるわけないだろ!いい加減にしろ!

ゴーゴー幽霊船に対する今更な事

  • イントロの「ぽーん、ぽんぽーん」

なんか聞き覚えあるなーって思ったら一部地域の青信号の音や!

  • ゴミ箱の「もえない」

萌えないってこと?
萌え絵じゃない、だからゴミ箱に棄てられる?

駄菓子屋商売

駄歌詞ってことだとおもうけど
その開き直り的自虐に惚れたんだけど
マトリョシカを視聴者をバカにしてる曲と捉えるとこれも似たようなもんかねある意味

二つの傘、二つの骸、三つのアリス

単にバージョンがあるよねって話だと思う
なにぶん見出しの言葉がメモってあるだけだから「風」みたいに意味わからんのもある
風は多分飛燕の追風ともう一曲昔の曲で風が出てくる的なしょうもない話やろうけど
傘が動画とバムで違ったら傘三つだね
アリスって三つもあった?

lemonと街のBメロ及びペルアリの導入

これはメロディが似てるよねってだけの話

三千とか三億年とか、明石家さんまの話交えつつ

なんか興味を惹かれるメモ書きだけどしょうもないぞこれ
明石家さんまがとある番組で不倫だかなんかした若手が何回したのって訊ねれれた時に「一回だけ」っていったのをそこは1000回とか言ったらウケたのになぁみたいなダメ出しをしたんだよね確か
そういう大袈裟な方が記憶に残るよねってことがいいたいんだろこいつ


BlackSheep

単に昔から一番好きな曲ってだけ
これ聴いて沈むのが気持ち良くてね
気持ち悪い話だと思うけど
関係ないけど羊の歌も好きなんよ
だからStraySheepでまた羊ネタが出てチョー嬉しかった
わかってくれてるゥ!みたいなね
多分それ勘違いというか
自意識過剰というか

ディスコバルーン

嫌いな奴がいる職場で働いてた時のヒトカラの十八番でしたね
サビはらーらーらーらーららーららーらーらーがも含めて歌おうとすると息継ぎできないぜえぜえ
私のコインは表も裏もおんなじか?
きっと私は米津玄師に好かれない
ごにょごちょごちょ
マイク使ってもらっていいすか?
そんなことないと思いますけど
いやぁ無理っすね
それぐらいの判断はできるつもりなんで

vivi

ピアノ弾けなくてもアウトロのメロディだけ簡単になんちゃってできて嬉しかった的なそれだけの話
オクサゲの連続だった希ガスの電子配置は安定
歌詞感想もあったらしいけど覚えてねえ
震災云々?語り尽くされてんだろそんなもん

ハレルヤ

度々ご登場シリーズ
米津玄師はユダヤ教に媚を売って売れた可能性が微レ存…?(陰謀論者並感)
ただの邪推
笛吹けども踊らずに深い意味とかがもしあってそれに関連して使ってるとかなら俺もうね逃げる

米民

lemonあたりの頃だったかな?
急に出てきてキモいなって思った言葉
なんでも民つける君らの文化を老害だから受け付けないんじゃよってわけじゃあなくて老害ではあるんだが単にミーハーミーハーしててミーハー嫌いだからムリムリムリムリカタツムリ🐌


雨降る街にて風船は悪魔と踊る

何故消したし
お得意の「恥ずかしくなった」ってやつか?
これだから美しさ信者は
ミーハーに聴かせて反応をみたい曲
強がるもよし気にいるもよし今の米津さんが好きだからとか宣うもよし
なんやえらそうやなワレ

首無し閑古鳥

感想があったみたいだけど覚えてないのでとばす

メトロノーム

最初は仲よかったのにだんだん離れていく感じをメトロノームに準えるのはわたしもこの曲が出る前に彼女にメッセージで送って意味わかんない。そういうとこがキモいって言われたのにこの差はなんなんほんま?
チクショーメ

眼福

感想あったそうだよ
もうここ(頭)にはないけれど
どこへいったんだろう…

LOSER、飛燕、砂の惑星、カムパネルラ、感電

既存ファンへのファンサにみえた歌詞が一部にあったっていいたいんだろ?おまえだってわかってるだろ、それには恥ずかしい勘違いだって。でも書くよ。
えっとね、感電の「お前がどっかに消えた朝より」とかか。でもそれは多分wowakaさんか又はツイート上で本物のHND△に対して反論した時に触れた自殺したと言うお友達のことなんじゃない?流石にそれを自分のような一旦離れたファンのことだと思うのはキモいで。
カムパネルラは「この街は変わり続ける図らずも君を残して」だったり「君がくれた寂しさよ」だったり「君がいない日々は続く」とか「君を覚えていたい」じゃない?MVもあってこっちはかなり自信があった。MVの奴らが古参ファンだとすると、現在の米津玄師には興味がないからすれ違うし、もういない過去の米津玄師を追い縋ってるから祈ってるのか?普通に恋愛の曲じゃないと思ったのは米津玄師が使う二人称って「あなた」のイメージがあって「君」ってなかなか見ない気がするんだよね。そこらへんこだわってそうな人があえて君って言ってるなら「あなた」相当の人でないことを気づかせたいのかなと。するとやはり離れたファンなのかなと。まあ間違っててもいいよ、私はそれで気持ち良くなったから。
まあでも、砂の惑星の君が今も生きてるなら応えてくれ僕に、をみると、ファンじゃなくて作り手の可能性もあるか。わかる人おる?
もしかして:そう言う風にしか見ていないからそう見える現象?そんな現象もしほんとに科学的にあるなら名前がついてそうだな。
飛燕はまた露骨じゃない?また誰かが泣いているとか、呼ぶ声が聞こえたらとか、君のためならば何処へでも行こうとか
関係ないけど「道の正しさは風に託してただ進んでいけ」って歌詞涙が出るほど励まされたことはここに記しておくね
まあ結果的に正しくはないんですけどね、初見さん
いつだっておまえはそうだ
なんでもかんでも失敗しやがる
だれもお前を愛さない

LOSER

いや日曜終わったんだけど
どうしてくれんのこの感じ
じゃあ続きはまた今度ね
ぽやしみ

追記

Kick Back

米津玄師って歌詞にアルファベット使わないんですよ。
周知のことと思いますが。
これは多分ボカロ出身だからじゃあないかとボクは思ってます。
ボカロってアルファベットの歌詞をそのまま取り込めないんですよね。
単語としてじゃなくて一文字一文字譜割されてしったりして。
だからまぁカタカナの方がテキストからそのまんまコピペして期待通りに歌わせやすいです。
米津玄師はそれをそのまんま個性として用いてると思ってます。
確かに我らがB'zなども最近のヒットチャートも「日本語+英語」みたいな歌詞はそこここに見受けられます。
でもこれって個人的にデコボコして見た目が悪いので。
米津玄師みたいなカタカナの方が私は好きです。
未就学児やゆとり世代以上の英語ができない大人達でも英語よりカタカナの方が理解しやすいと言う意味で万人向け、彼が言うところの「ポップ」であるとも言えるかもしれません。
米津玄師ももしかしたらそこを狙ってるのかもしれませんね。
まあここまでは前提知識として。
この曲に関しては歌詞中の「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR」でガッツリアルファベット使ってんですね。
なんでだろう?心境の変化かな?と思いました。
スペースシャワー的その番組が勝手にアルファベット表記したのかな?とも思いました。
前例があったんですよ、POP SONGの時に。
米津玄師はちゃんとカタカナ使ってたのにゴミみたいな歌詞サイトが勝手にアルファベット表記してるっていうね。
まあ閑話休題。
でゴミじゃないタイプの有能な歌詞サイトで確認したところ、なんとホントにアルファベット使ってるんですね。
うわぁ、遂にかぁ、なんて思いましたよ。
でも最後までみたら「Contains a sample of "そうだ!We're ALIVE" 作詞・作曲 つんく」みたいな表記があって。
試しに「そうだ!We're ALIVE」の歌詞をそのサイトで確認したらまんまありましたね。
「努力 未来 A BEAUTIFUL STAR」
そういうことかと。
2002年のモー娘の曲で、YouTubeにあったんで聴いてみたら「あーなんかこんな曲あったなぁ」って感じでした。
じゃあ次は「なんでそんなことしたのか」ですよ。
そもそもKick Backって曲名を初めてみた時に
"どう考えてもチェンソーマン作者の別作品である「ルックバック」意識したタイトルやん…チェンソーマンの主題歌なのに同作者の別作品をモチーフに使うってさすがイカれてんな(天才だな)"とか思ってたんですが。
ルックバックはジャンプラでの配信初日に読んだんでもう大体の筋をあやふやに覚えてる程度なんですけど、たしか帰り道のシーンでモー娘かなんか、当時はやってた曲を口ずさむコマがそういやあったような気がするんですよ。ボクって最低なんで態々確認したりしないんですけどね、それはあなたに任せます。
だから「ああそういうことなのかなー」って感じでした。
MVも終始「ライバル」みたいな人がいるんですけど米津玄師のこともこっちにも一切見向きせず前だけみてんすねその人。
でMVの最後で米津玄師が話しかけたと思ったら「そんな人はいない」って展開。
あれも多分ルックバック一話で描かれた主人公とライバルの関係を意識してるのかなって思いました。
ルックバックの主人公は最初、絵に自信があったんですけど、突如現れた自分より絵が上手い人に打ちのめされてしまうんですよね。
それでその人をライバル視して関わろうとしてく感じだったと思うんですが(あやふや)…。
最終的には「実はその人は自分に憧れてた」という感じのことが発覚して、つまり「そんなライバルなんかいなかった」わけなんですよね。
勝手に自分がライバル視してた人物像は全部妄想なわけですからね。そこら辺を意識してのことじゃあないかなと。
それ以外のことはちょっとわたしにはわからないですね。
何故米津玄師は轢かれたのか。
何故パルクールをはじめたのか。
何故米津玄師は増殖したのか。(米津玄師の真似をする新人ボカロPとかの揶揄か?いるもんね、歌詞中に明らかにリスペクトしてますよみたいな歌詞使う奴。ボクん中で米津玄師って決して聖人ではなくて大分人をわかりづらい言葉で皮肉るタイプの人間ってイメージなんでやりかねないなって思います。米津玄師だと思ったら米津玄師の皮被った外人だったりしてってのもそこらへんの意味かもなぁ。或いは「意味なんてない」のかもしれませんね。「退屈で美しい」感じの。わかります?)
まあ「幸せになりたい」とかの歌詞はそれも「そうだ!We're ALIVE」から持ってきてるのかもですね。
そして米津玄師のいう「あなた」とは誰か。
米津玄師は二人称を使い分けるタイプの作詞家ですが、「あなた」は昔からおそらく最も使ってる二人称でしょう。
TEENAGE RIOTでのあなたも、ディスコバルーンでのあなたも、春雷でのあなたも全部別のあなたを指してるのは明らかです。
だから、二人称を以てそれだけであなたが誰かを想像するのは早計なのは皆さんよくお分かりでしょう。
なので通常、前後や曲全体の歌詞の流れで判断していくわけですが、このあなたが出る前は「楽して生きたい」だの「全部めちゃくちゃにしたい」だの言ってますから、ここらへんは割とチェンソーマン意識しつつ「最近の若いモン」の傾向も意識してるのかな感じかなと私は受けとりました。
これは私の持ってるイメージに過ぎませんが、ここ10年くらいの「最近の若いモン」は割と自暴自棄で刹那主義的な傾向にあると思います。
自分さえ良ければよく今ここが楽しければもうなんでもいいみたいな。
それの良し悪しを言いたいのではなく、そういう「あなた」の心を知って商売に生かしたいぜ程度の浅い意味合いにしか私には受け取れませんでしたね。
米津玄師が優しい人間だと思ってる人はそう思わないでしょうけれど。
いやぁしかし、流石ですよね。
意味わかんないですもん。
私も思わず一曲書き上げました。
それくらい影響力はありますよねやっぱあの人。
ほんと大嫌いかつ大好きですよ。
聴くつもりなんかなかったのに、知り合い宅で気まぐれにテレビつけたら、ちょうどMVはじまるところで。
もうそれこそ「なんかあるな」って思って覚悟決めて観ましたよね。
観るんじゃなかったなぁやっぱ。
大嫌いで大好きです。
これからも続けられる限り続けてほしい。








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