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「とは」と問いかける職業としての作家

――小説やマンガは、常に「とは」を問いかけるもの
――「とは」があるから「驚きが生まれる」

 作家は問いかける職業です。
 私はそのことを中学には知っていて、それからずっと「如何屋サイと」というペンネームで小説を書き続けています。

(今回のお話)音声番組『コルクラボの温度』の書き起こしnoteを参考に、問いかける職業とは何か、考えていきます。

(何分で読める?)7分(約3500字)

感情ミーティング

 冒頭の文は『「では」で語るか、「とは」で語るか。佐渡島庸平×石川善樹×羽賀翔一 #コルクラボの温度 』から引用しました。

 三音の擬音は一音目と二音目では違う場所から音が出るという法則みたいなものがあります。

 「バキューン」の「バ」は破裂音で「キューン」は反響音。
 「ガチャン」の「ガ」は衝突音で「チャン」は割れる音。
 「すぽーん」の「す」は摩擦音で「ぽーん」は空気が抜けた音。

 それを知っていたので、ミーティング内で「アハハ」は「ア」と「ハハ」で異なる感情があるんだ、という話になったのがとても興味深かったです。

石川:「アハハ」っていう笑い声って、「ア」が驚きで、「ハハ」は「ハハァー」のような納得なんだよ。驚いた後に納得すると、人は「アハハ」っていう感じになる。簡単に言うと、これはボケとツッコミなんだって! ボケは「ア」という驚きで、ツッコミがあって初めて「ハハ」っていう笑いになる。

 今まで何気なく聞いていた三音が違って聞こえてきますね。

 例えば、「どきり」の「ど」と「きり」は違う感情があるのかも。「ど」で驚いて、「きり」で正体に気づく、というような。

 もしかしたら、『でんじゃらすじーさん』の「なすーん」は擬音じゃなくて、「な」と「すーん」でたぶん違う意味があるのかもしれない。

「驚き」は感情というよりは反応

 驚きは感情というよりは反応だと思います。

 反応は感情よりも人類に共通するから、驚きを人に分かるよう表現できるのって共感を得やすいのでは?

 笑いの中にも「リアクション芸」があります。
 最近のテレビだと出川さんのリアクション芸はおもしろいですよね。
 視聴率で見ても、驚きを煽っていくのは当然なのかもしれません。

 驚きと感情はセットです。
 映画脚本のバイブルであるロバート・マッキーの『ストーリー』でも、アクションとリアクションをセットで考え、「ビート」と呼びます。

 ビートは脚本の最小の単位で、シーンはビートで構成されるのです。

「とは」と考えることはメタ構造になっている

 「とは」と考えることはメタ構造になっていると思います。

 人を驚かせるには自分も驚かなければいけない。
 いつも同じ歌を唄っていても、驚きがあるだけで聞く方も驚くのかも。

 ラーメンズのコントを通しで見ると、路上のギリジンは不敵なキャラクターとしての片桐仁が行き着いた先の一つで、そこには金が無いのにストリートミュージシャンで稼ごうとする「ギリジン」という現実が待っており、しかも最終的に片桐仁の不敵さは破綻し、狂い叫んでステージを後にする。

 金を稼ぐためにストリートミュージシャンをして、金が無いことをネタにした歌を唄うというメタ、そのコントで金を稼ぐというメタ(しかし、この動画再生による広告収入は日本赤十字社に寄付される)。

 マトリョーシカのように配置されたメタ構造は、私の認識を外側に広げると同時に、「ストリートミュージシャンをするとは?」という問いかけをしているように感じました。

 たとえば、『カメラを止めるな!』もメタ構造によって「映画を撮るとは?」を問いかけています。

 「とは」を考える時に取り出すのは、「では」です。
 「では」というのは、ある種の答えであり、模範解答だと思います。

石川:「とは」の本って、「何が普通なのか」っていう状況設定が必要だから、けっこうむずいんだよ。多くの人が納得のいく点をポーン!と打つことって、難しいから。

 「何が普通なのか」を表現するために、「とは」で考えるテーマが置かれている場所を俯瞰で捉えようとする働きが、脚本をメタ構造のストーリーにすることなのではないか? と思いました。

「とは」と問いかける職業

 「とは」で語ることは体験や感情をアウトプットして深める、と感情ミーティングでお話されていました。

 中学生の私は「作家とは?」について「問いかける職業」というところまでは知っていても、何を問いかけるかについては考えませんでした。
 歳を重ねれば、問いかけるものが変わるはずだと思っていたからです。

 大学生になって、教免を取るために聴講した青年心理学でエリクソンの心理社会的発達理論を知って、人生の命題は歳とともに変わって当然だと知ります。

 問いかけるものは、その時々の心から抽出したものだけではダメと気づきました。

 なぜなら自我発達に分類される問いは、普遍的で、驚きがないからです。
 私より年上の人たちはみんな似通った結論に辿り着いているはずで、ヒット映画を見ていると大抵のテーマはエリクソンが提示したものと同じです。

 映画と違って小説や漫画というような個人で制作するもの、あるいはVtuberのような個人が作品になるものにおいては、誰しも抱く問いは基本構造に組み込んで、本当の問いは個人的なものにするように思います。

 「とは」と問いかけるとは、答えのないものを考えることなのです。

 書き手と読み手が一緒に考え、何かの拍子に答えが出たりするから驚きになるのかもしれません。

まとめ

・笑いは驚きと納得でセットになっている
・驚きと感情のセットはビートであり、脚本の最小の単位
・「とは」と語ろうとすると「何が普通なのか」が必要になる
・「何が普通なのか」を表現するなら、脚本をメタ構造にすると楽
・作家自身の命題は人類の普遍の命題に過ぎない場合がある
・「とは」と問いかけるなら、答えのないものを問いかけよう

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