なぜ人は譲り合うことをしないのか?
本日のテーマも非常に興味深いテーマです。『なぜ人は譲り合うことをしないのか』世の中には大きくわけて2種類の人間が居る。それは譲らない人と、譲る人である。なんて。言ってみたかっただけです。と、やはり冒頭はふざけてしまわないと気が済まない猫目です。皆さん。こんにちは。
それでは本題です。
バスの席を譲らない
もとより本テーマは「バスの席を譲らない」という日常の光景を不思議に思ったことを議題の出発点としています。お年寄りや妊婦さんなどに、優先席を譲ろうとしない若者。または奥に空席があるにもかかわらず、席を詰めようとしない人。鞄などの荷物で席をふさいでしまっている人エトセトラ。
そういう日常的な光景の中にある「譲り合い」について。譲らない人たちの心理を分析していこうと思います。皆さんも一度は見たことがある光景だと思います。毎日の通学や通勤にて席を譲らない人は果たしてどれくらい居るのでしょう? また、それらの人たちは何を思って席を譲らないのでしょう? そもそも理由はあるのでしょうか?
スマートフォンの画面を見つめるひと。両耳にイヤホンをつなげているひとエトセトラ。公共交通機関にはいろいろな人が居ます。いろいろな人の中にはもちろんお年寄りの方や、妊婦さんも居るわけです。
譲「ら」ないひと。譲「れ」ないひと。
世の中の人間は4あるいは5あるいは9つの性格に分けることが出来るらしい。そして「譲らないひと」の中には2種類のタイプ人間が存在する。大まかに言うと、①の譲らないひと。②の譲れないひとである。
さて。①の譲らないひとですが、こちらは意識的に頑として「譲ってやるものか」との感情が深部に根付いているわけでして。そうなると、もはや「譲るものか!」の一点張り。これを別名「意地」とも言います。そういう方は残念ながら、どうしたって譲ろうとしません。おそらく率先して譲らないでしょう。
そういう意識をお持ちの方は「譲ってやるものか」との気持ちを抱えている限り、何がなんでも譲りません。そういう意識は、やがて自然のうちに行動(態度)に現れてしまうのだと思います。そういうわけでして、譲らないひとに関しましては自身の意識を変えない限り、100年先まで席を譲ることはしないでしょう。
つぎに、①の譲らないひとに対し、②の譲れないひと。こちらの方の心境は少し複雑であり、いささか多様していると思います。ですので今回は②の譲「れ」ないひとの心境や心理を分析していきたいと思います。譲れないひとには、まず、はっきりとした要因があると考えています。たとえば体調が悪かったり身体が弱かったり。そういう要因は外見からではわからない場合が多いです。それら要因のない人の心理をもう少し、分析していきます。
ちょっと恥ずかしいので・・・
席を譲れないひとにはどのような心理が働くのか? おそらく誰でも一度は電車やバスの中で席を譲るか、はたまた譲らないか。迷ったことがあると思います。ほんとうは譲りたい……けど譲れない。そういう体験は猫目にもあります。心因の背景により自らの行動を制限してしまう。思うようにならない。そういう心の背景や葛藤の中に「譲れない」の行動は生じるのではないでしょうか?
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あなたは各駅停車の電車へ駆け込みます。さて。車内は昼過ぎという時間帯もあり、ガラガラです。空席が目立ちます。ことに優先席には誰も座っていない。まわりを見まわす。つり革につかまり立っている人は疎ら。彼らはきっと自ら座りたくない。あるいは立っていたい人たちなのだろう。
そこで僕は優先席に腰をおろす。仕事で疲れていたこともあり、うとうと。どうも瞼が重たい。僕はいつか春の心地よい陽だまりの中に眠ってしまったらしい。ふと目をあけると・・・なぜか車内は満員である。車内アナウンスによると急行列車の路線で事故が発生したようだ。僕の降りる駅まであと五つ。時間にして三十分くらいだろうか。僕はまた目を閉じようとした。閉じようとしたその時である。
人混みに揉まれるお年寄りが目に入る。彼は杖をついている。足取りも不安定である。電車がゆれるたびにあっちにふらり。こっちにふらり。おぼつかない。僕は自分の心臓が高鳴るのを感じた。優先席は満席。みんな僕と同じく、二十代くらいの若者のようだ。僕はうつむき加減に、しかし眠気はすっかり消え失せ、ちらちら、お年寄りの方を盗み見る。
そういう何とも言えない歯がゆさの中。僕はいっこくも早くお年寄りに席を譲ってあげたい気持ちになった。のみならず僕の座っているのは優先席である。本来なら僕のよう病気でもなければ、体調も悪くない、元気ぴんぴん二十歳の男児が座っている席ではない。僕は何度か深く息を吸いこむ。
と。
お年寄りは僕の前までやって来た。ふらふら不安定に杖をついてやって来た。僕は「今だ」と思い、お年寄りを見あげる。しかしお年寄りは窓の外をぼんやり眺めていた。耳に肌色の補聴器をつけているのが見える。僕は声を出そうとするも、僕の唇はパクパクぱくぱく。魚のように空気を食べているのみ。僕はタイミングを見失ってしまう。のみならず僕の焦る気持ちの中に、或る妄想はしきりに僕を不安にし始めた。というのも、優先席の若者たちや他の客から、僕がお年寄りに席を譲ることで僕自身が注目されてしまう、という気恥ずかしさを強く感じたのである。
もしもお年寄りに声をかけて断られたらどうしよう? もしかしたら周りのひとに「なにいい人ぶってるんだ」とかなんとか。思われるかもしれない。 もしも僕と同じタイミングで席を譲るひとが現れたら? もしも。もしももしももしも。こういう「もしも地獄」から抜け出そうと僕は窓の外へ視線をそらした。が、そういう窓ガラスにもおじいさんの姿は、はっきり映り込んでいた。僕は息の詰まる思いで自分の足もとへ視線を落とす。
妄想をふり払おうとすればするほど。僕の心臓はうるさく響き渡り、僕の想像はその輪郭をリアルに造形し始めた。どうにか注目を受けずに席を譲りたい。誰にも気がつかれずにお年寄りへ席を譲つ方法はないだろうか。僕はいろいろ考えた。その結果。
その結果。僕はすッと無言で立ちあがる。すると、僕の目の前に居た若い女性はスマートフォンに目を落としながら僕の空けた席へ。すんと何食わぬ顔をして鎮座してしまったのである。僕は三十分の間中、絶えずおじいさんのことばかりを考えていた。そうしてパソコンケースを抱えた僕と、杖をついたおじさんは三つ目の駅で電車を降りた。
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ここで「僕」に働く心理を分析してみます。
① 注目されるという恥ずかしさ
② まわりの人の反応を気にしてしまう気持ち
③ タイミングのズレによる焦燥感
どれも堂々巡りの思考の末に行き着く「譲れない」という心理です。
失敗を考えすぎた結果「ゆずれない」
上記でも述べましたとおり「譲れない」の心理には、さまざまな要因が潜んでいます。これは「譲り合い」でなくとも生まれる自然の心理現象のような気もします。ことに「~できない」「~しない」の核心には「失敗するかもしれない」という不安要因が含まれています。
誰しも失敗を恐れるものです。
失敗するかもしれない。譲っても断られるかもしれない。その結果として恥をかく可能性がある。そうでなくとも相手にとって迷惑なことなのかもしれない。「まだそんなに歳を取ってない!失礼だ! 」そうお年寄りは言うかもしれない。「立っているほうが運動になって身体にいいのよ」 なんてことを妊婦さんは言うかもしれない。
そもそも周りの人も席を譲っていないのだから、自分が席を譲る必要など無いのではないか。もしかしたら。あらゆる感染症を気にかけて席に座らないのかも。そうだとしたらすごくお節介なことをしてしまうことになる。
相手は不快に思うかもしれない。気分を害して怒るかもしれない。怒鳴られるかもしれない。断られるだけでも恥ずかしいのにその上、大声を出されたら……たまったものじゃない。冗談じゃない。でも。だけど。でも。だけど。ああでもない。こうでもない。こうかもしれない。ああかもしれない。
そういう思考の迷宮に一度はまり込むと際限がありません。いつまでも断ち切ることができず、思考はとめどなく広がっていきます。想像とはそういうものです。想像はこちら側の頭の中にあるもの。相手の頭にあるものと違う。そのため、どうしても情報が偏ってしまう。当然といえば当然のことです。しかも。こういう想像の中の思考というものは直観を濁してしまいます。それどころか、悪いことを考えているとき特有の「ネガティブな思考」の連鎖に陥りがちです。ネガティブ無限ループです。
この場合の直観とは目の前に起こっている現象であり、実状です。杖をついたおじいさんが足もとを不安定に、あっちによろよろ。こっちによろよろ。よろけている状態を指します。これが目に見える事象であり実状です。
相手がどう思っているかなど、実際のところ、相手にしか分からないのです。画面の前のあなたがエスパーでない限り、あなたは「僕」の考えていることがわかりません。電車の中のおじいさんはもしかしたら「席を譲ってほしい」そう思っているかもしれません。状況だけ見たらかなりの確率でそう思っているでしょう。
ここで厄介なのは「状況」に「思考(とくに根拠のない妄想や想像)」が加味してくることです。
こうなれば「僕」の思考は一方的な堂々巡りになってしまいがちです。あらゆる失敗の情景が脳裏に浮かび、行動の邪魔をします。雁字搦めの状態の「僕」に勢いもタイミングもありません。あるのは焦燥。焦りばかりです。
リスクを考慮した場合でも同じ結果を導くことでしょう。おじいさんに席を譲らないことで「おじいさんが立ったまま、どこかの駅で降りてしまうこと」よりも「おじいさんに席を譲ったがゆえに断られる(失敗する)」ほうが天秤にかけた場合に僕に与えるダメージは強く出ます。
つまり「僕」にとって席を譲ることなくやり過ごす、このほうが無難なのです。心に受けるダメージのリスクも少ない。
仮にもし席を譲らなかったとして、おじいさんが転倒してしまった場合も同様です。そこで誰も「僕」個人を責めることはありません。なぜなら彼の他に誰も席を譲っていないからです。罪悪感を感じるのは「僕」の心であり、彼以外の席を譲らなかった人たちも同じように罪悪感を感じるはずです。これは連帯的な罪悪感であり、個人の責任とは程遠い。そもそもおじいさんが転んでしまう確率は決して高いとは言えません。
ここまで「僕」が緻密に考えているかどうか。それは判断できません。が、ともあれ人間の想像力が豊かなのは事実です。
これまでの経験(体験)
①の譲らないひと。(譲りたくないひと)
②の譲れないひと。(譲りたいひと)
これら①と②の人にはどのような違いがあるのでしょうか? それはこれまでの体験や経験に基づくものと思うのです。たとえば①の場合は以前、席を譲った際にイヤな思い(経験)をした可能性だって十分にあるのです。それが嫌な経験であればあるほど、①さんの記憶に残ってしまいます。その結果として「私は絶対に席を譲らない!」となってしまう。その可能性も否めません。もしくは①さんは、これまで誰からも席を譲ってもらった経験がないのかもしれません。
②さんは、これまで親切な体験に恵まれてきたとします。誰か親切なひとに席を譲ってもらった経験がある。実際に席を譲ってもらったときに助かったという思いや、またその記憶がある。そのとき発生した感謝の気持ちを今でも大切に胸にしまっておいた。それを今度は②さん自身が他人へと同じ行動を取る。
親切にしてもらったその経験に対する「親切の恩返し」です。つまりこれまでの体験や経験の違いが「譲る」「譲らない」の気持ちを動かしている。そう考えることが可能だと思います。
相手を思いやる気持ち
人間の想像力は豊かだ。と、猫目は上の章でそうお伝えしました。その素晴らしき想像力を駆使して今度は、物事を転換してとらえてみます。相手を思いやる気持ち。つまり推察力を働かせます。他者の心中を思いやり、推し量る。推し量るとは、似たような事実を当てはめてみることです。そこへ相手を思う想像力を上乗せします。
まず相手の状況を他の類似したものと重ねてみます。おじいさんが「杖をついている」という事実と、「よろけている」という事実に着目します。この時点で相手にとっては良い状況とは言えないでしょう。似たような事実は電車の中でなくとも見受けられます。
そういう状況の中で、はたして、おじいさんは席を譲ってもらうことを不愉快と思うでしょうか? 自分だったらどうでしょう? 怪我をして松葉杖をついている。病院帰りでとても疲れている。中には放っておいてほしいと思う人もあるかもしれません。ですが、そういう人が「席をどうぞ」と言われたからといって怒るでしょうか? 仮に怒鳴られたとしても。それで「僕」が悪者になることはありません。
むしろ多くの場合は「僕」に対して感謝の気持ちを抱くと思います。多くの似たような事例がそうであるように。おじいさんは「僕」から席を譲ってもらうことで有難いと感じる。事実+想像で判断することにより、より正確な判断ができます。想像だけで物事をとらえるというのは実に危険で、かつまた不安定な行為です。
爽快感
何度か席を譲っているうちに、人はある爽快感を覚えると思います。それは達成感に似ているかもしれません。そういう清々しい気持ちをもって誰かに何かを譲るということは良い循環を生み出します。たまに「私はまだそんなに歳じゃない」と断られたとしても、それは10回20回のうち1回の出来事。「ああそうですか」と受け流すことも可能となってきます。
実践・電車やバスで「よろしければどうぞ」
なるほど。推察と思いやりと回数が重要なのか。とはいえ、いざ実践しようとなると、かなり勇気が必要となってきます。そこでいくつかの席を譲るセリフを書き留めてみようと思います。
①「よろしければどうぞ」と席を譲ると、相手は「いやいいよ」と断りをいれてくる。そこで「あっそうですか。せっかく譲ったのに頑固なやつだな」と口にしてしまってはそれこそ注目の的なので、高鳴る心音を誤魔化しながらとびきりスマイルで②「そうですか。いつでも声をかけてくださいね」とさらりと着席。あるいは③「自分はもう降りるので」といって席を立つ。
このセリフを口にすることで周囲はあなたを尊敬の眼差しで見ることになります。たとえ「なんて偉そうなやつだ」と思われても、なにを隠そう、あなたは事実、偉いのですからまったく関係ありません。多くの人はあなたを真似たいと思うはず。猫目は間違いなく、そんなあなたを尊敬いたします。
改めまして「譲り合い」とは?
譲り合いとは、お互いに譲り合うことに他なりません。類語には「折り合い」「寄り合い」「歩み寄り」など。対義語では「取り合い」「奪い合い」「妥協」など。今回は電車やバスの席を譲る、譲らない人の心理を分析してみました。
ここで改めて「譲り合う」ことについて考えてみます。それは例えば、席を譲ることの他にも「車の運転」や「友人・恋人との喧嘩」など。細かいところで見ると「議論を戦わす」際にも。日常生活における身近なところで譲り合うことは可能です。
たしかに大切な部分での妥協は一概に「良い」とは言えません。しかし、大切な人との関係と、大切な自分の意見と、長期的にみてどちらが大切なのでしょうか。それは人それぞれ。結局はそういう結果に逢着するのですが。譲り合う気持ちをもつこと。そのこと自体、この競争社会の中においても重要なことだと思います。
なにかで息詰まったら一度「どうぞ」と、ゆずってみてください。もしかしたら相手もそんなあなたの態度に「譲り」はじめるかもしれません。譲り合いの精神をもつことは、あらゆる人に心のゆとりを与えます。それは自分のみならず相手に対しても、またその場所の空気においても同じことが言えます。
ゲーテ(劇作家・小説家・自然科学者・政治家)
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