渋沢栄一の素敵さ
今回は渋沢栄一の素敵さについて、いかに彼のマインドとスキルが抜きんでているか、というお話です。なんというか、「かっこいい」でもなく「頭がいい」でもなく「クール」でもなく…時代を超越した「素敵さ」としか表現できない語彙力を、お許しください。
さて私の卒論では、文献研究を主としており、明治期に約500の企業、600の社会貢献活動に携わった渋沢栄一の思想を分析しつつ、現代に通じる企業の「ありかた」みたいなものを追究していました。ちょっと古いワードですが私はそれを「企業市民」と呼んでいました。
いま私たちが当たり前のように享受しているこの市民社会のフレームの主語を人間から企業に置き換えるだけなのですが、市民社会の中で何かを享受する以上、そこに存在する企業はその社会に対して責任をもって存在すべきだろう、という発想ですね。これはよく、「企業組織の社会的責任」として説明されています。
企業の社会的責任って言うのは簡単ですが、それを実行する、しかも継続する、そして会社のビジョンと、事業とその責任の取り方とやらが一筆書きでストーリーになってしかるべき、なんていわれると?社会貢献活動とかSDGsとかわかるけどさ、優先順位低いから。机上の空論でしょ、という空気。
それでもなお、企業として持続的に利益を出しながらビジネスを回していくのであれば、実現までの過程をおもしろがりながら、理想を追いかけ続けるべきでは、と個人的には思っています。
会社という存在がそもそもなかったような時代に、論語という思想ベースの上に中国や欧米諸国を知った渋沢の「企業の成長は社会的責任ありきだよ!ちゃんとまわりをみて、世のため人のためになる活動も責任持ってとりくんでね!これは時代が変わっても不変だよ!」といってのける、そして実行しちゃう、その頭の中を見てみたい。
なぜって、今でこそ「CSRなんてもう古くない?いまどきSDGsだよ!」と言わんばかりにSDGsが叫ばれていますが、100年前の話ですよ、これ。
逆に今を起点に考えると、100年後の渋沢栄一って、今でいう誰でしょう?100年たってもその本質が変わらない、「ものごとの核心を見抜く力」と、もちろんそのものごとに出会う「好奇心」と「行動力」、そして活用していくための情報の「咀嚼力」が、得も言われぬ魅力です。このあたりについては、『航西日記』がおもしろいです。インターネットなんてもちろんない時代に、初めて見た諸外国の産業や文明。もしあなたが100年前にタイムスリップしたら、何をしますか?
体験を、驚きと感動で終わらせない男、渋沢栄一。素敵すぎます。