信仰心ってどこから来るんだ?
私は自分以外の誰かや何かを一途に信じるということがなかなか出来ない。疑う方が多い。だからこそ、一心に何かを信じる人に猛烈な興味を抱く。
どうして?どうやって?と知りたくなるのである。
人間というのは何かを信じたい生き物である。一番信じたいのはきっと己の正しさだ。
他者や事象を通し、それらに信じ従うこと、それらを選んだのは正しいのだとして自分を信じたい。
確証バイアスというものがある。どちゃくそ有名なユリウス・カエサルがこんな名言を残している。
確証バイアスは心理学用語であり、まさにこのユリウス・カエサルさんの仰ることでもある。
仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。(wikiより)
らしい。
これが行き過ぎると依存だとか盲信だとかに発展する。これを相手側から強く働きかける場合が洗脳であろう。
私もこうして持論を展開するにあたり、確証バイアスという心理学用語を用いてその正しさを証明しようとしている。
それが既に確証バイアスかも。そう考え出すとキリがない。
底のない穴を覗き続けているかのようだ。
今一つ信じる気になれないものの代表に宗教がある。別に信仰のある人を攻撃する意図はない。
宗教というのは人類史で切っても切れないもので、世界史においても絶対にその存在は無視出来ない。
宗教画を見るのが好きで一時、キリスト教について調べたことがあるが信仰するには至らなかった。
宗教というのは無闇矢鱈にとりあえず信じておけばOKというものではなく、色々な制約が付き物だ。
「あれ食べちゃダメ」「ここ触ったらダメ」「その服着ちゃダメ」とまあそれぞれある。
恐らくそれらは宗教の発足した地域及び時代では合理的な理由があったのだろうけど、今現在日本で暮らす私にとってはあまり合理的とは思えなかったり、むしろ制限される苦痛が勝ったりすることが多い。
しかしその制限の苦痛に耐えながらそれでも尚信仰したいものがあるのかもしれないし、もしかしたら余裕余裕!といつもと変わりなく過ごしてついでに救われてラッキー!と思ってる人もいるのかもしれない。
私もニンニク禁止・喫煙推奨・夜ふかしこそ正しいって教えな宗教があったら、余裕余裕!と入ることができるかも。いや無理か。
そもそも『神様』というものがどうにも信じられずにいる。だってニンニク禁止・喫煙推進・夜ふかしこそ正しい教があったとしたら、わざわざ入信せずとも私は正しい行いをしているんだから救われまくるわけじゃない?
いやいや、死後に救われるのよと言われても、死んだ後のことなんて誰にもわからないから確証がない。
信じる気持ち+制約(修行)で初めて救われるのだろうか。それなら身体的都合でその制約を守れない人はどうなるんだろう。
もうわからんな??
神や教祖、宗教を信じるきっかけ及び決定打として神秘体験を挙げる人がいる。
神秘体験は集団心理だとか、それまでに極限状態にあることで生まれたトランスだとか、それから病変的なもの、あと薬物を使ったものなど様々。
薬物を使うのは力技すぎて抗えないかもしれない。でも断食等の苦行により極限まで追い込まれていたら神秘体験すげー!の前に、こんな目にあわせやがって〜〜〜!神も仏もどのツラ下げて出てくるんだ!と普通にずっとイラついてると思うし、有り難みもクソもない気がする。
それと、すぐ低血糖になるから頭痛でそれどころじゃなさそうである。
結局のところ、神秘体験は後押しというか後付けで『元々スピリチュアルに興味があり、何かを信じたかった人』でなおかつ『苦行や奉仕が好きな人』が『苦行の末にスピリチュアルな経験をした』という、一連の楽しいの盛り合わせの名前が『信仰』なのか。
とすれば、私とは楽しいと感じる方向性が決定的に違う。見方を変えると私の信仰心の低さがどうこうよりも、信仰心が一般よりめちゃくちゃに高い土壌を既に持っている人がいるだけなんだろう。
人は信じたいものを信じ見たいものを見る。私は自分を一番信用していないし一番信用している。
矛盾している。
私が『信用してない自分』の例が明日の自分。明日でいいかな……と思った時に、待て待て明日の自分がさあやるぞー!となるとは限らないじゃん?と疑う。今日やれることやっておこう。と動く。
そして私が『信用している自分』の例は今日の自分。やれることやっておこう、きっと明日の自分は昨日の自分グッジョブ!ってなるから。というのを信じる。
そうやって様々な場面で自分のことをいつも疑って、自分の行動をいつも信用している。ただそれだけで私の生活は大分快適になる。
他人を疑い信用するより、自分を疑い信用する方が私には合っている。
もしかしたら同じように自分を疑い信用する方が合ってる人や、今は特にそうする必要がある人もいるかもしれない。
他人や他の何かに振り回されて疲弊していたとしたら、一旦これまでの自分を疑って今これからの自分を一番信じてみるのもアリ。
自分以外のものに振り回されて楽しいのであればそのまま信じて生きていけばいい。
明日死んだ時後悔しないように、社会的に許される範囲内で自分の楽しいを優先して行きたいなと思う今日この頃。