働くこととは?
仕事、そして働くこととは自分の中でなんだったのだろう?
西村佳哲著『自分の仕事を作る』(ちくま文庫)を読んでいて、ふとそんなことを思いました。
自分自身、今働いている中で、どちらかというとお金のためにやっているな、という感覚があります。朝は行きたくないのに起きて、電車に揺られて、眠気まなこに会社にたどり着く、とそんな感じです。
しかしこの本を読んで、本来仕事というのは、そのようなものではないな、と思いました。
吉田松蔭がおっしゃっていることを引用します。
何か自分のこれがやりたい、というようなものまず見つけ、それをブラッシュアップして、公共のために、誰かのためになるくらいまで磨く。それがその人の真骨頭(真骨頂)でそれを発揮するために、日々学び、研鑽をする。これが吉田松陰の考えることだった。(岩橋文吉著『人はなぜ勉強するのか 千秋の人吉田松蔭』より)
それが自分の思う仕事であるのですが、そんな理想とは程遠いことをしているなと、反省をしております。
仕事というのは、お金を稼ぐ手段で、それ以外の時間を何か自分の楽しみとして過ごすという方も多いと思います。自分としては、仕事こそが本来行いたいことである、ということが理想と思いますが、仕事観というのは人それぞれだから一概にこれだと決めつけることは安易にできません。人それぞれの願望、夢、目標などなど、その人が何をやりたいのか、望むのかは千差万別、十人十色です。
他方、古代ギリシャでは、自由人と奴隷がいて、労働は奴隷が担い、自由人は時間・労力を費やさずに金銭を得ていました。しかし、自由人はそこで空いた時間に何をしていたかというと、自分たちの都市コミュニティがより良くなるために教養を学び、より良い政治を行なっていました。
とするならば、お金を稼ぐことを目的とせず、お金は手段であって、目的は教養などを「学ぶ」時間を作ることにあります。
また、哲学者のハンナ・アーレントは、人が生きていく上で必要なことは「仕事」「労働」「活動」の3つであると言っています。
「労働」(labor)
生命を維持するために必要なものを作り出ことや消費すること(料理すること、食べることなど)
「仕事」(work)
ある程度の耐久性を持つ消費の対象を作ること。人工物(例えば道具・建築物など)を作ること。
「活動」(action)
言論による草の根の政治活動。(地域活動など)
(小川仁志著『図解小川仁志のやさしい哲学教室』より)
ここでの「労働」の定義は、一般的な私たちの認識している労働とは、少し違いますが、「労働する」ということも生きる上で必要なことなのだろう、と思います。
仕事や労働はあり過ぎれば、何かを学んだりする時間がなくなるし、逆になくなればそれはそれで人として「必要」なものがなくなってしまうので困ります。
この本(西村佳哲著『自分の仕事を作る』(ちくま文庫))の中である部分を引用しますと、
「ギリシャのコス島で、門弟に医学を教えていたヒポクラテスは、人が健康になるための条件として五つの柱をたてていたというが、その第一項は「仕事を与える」だった。」
ということが書かれています。仕事するということ自体、本来、私たちにとって必要なのではないでしょうか。
また話は変わりますが、「仕事」をWEBで検索してみると、
「仕事」
何かを作り出す、または、成し遂げるための行動。
とあります。
つまり、まず自分がやりたいと思ってそれを作り始め、それを成し遂げるためにすることこそが仕事である、と言えるのではないでしょうか。
仕事の定義は様々ですが、古代ギリシャの自由人と奴隷システムであるならば、奴隷が労働を担う部分を機械に任せれば、私たちは労働から解放され、時間を得ることができます。(ベーシックインカム)しかし、その空いた時間をより良い社会にするため、教養などを学ぶ時間にあてるべきであろうと思います(が、何をするかはその人次第でしょう。。)。面白いのは、これまでは仕事のために小学校、中学校、高校などで学ぶというスタイルが従来の教育システムですが、古代ギリシャでは、学ぶためにお金を使う、学ぶために仕事、労働をする、という逆のサイクルになっていることです。
また、労働というのは我々人にとって、必要なことでもあるため、たとえベーシックインカムで働く必要がなくなったとしても、労働することを選択できるような社会になるべきだとも思います。
この本の中で、インタビューを受けている方はどの方も生き生きしているなという印象を受けました。そして自分のこんなものを提供したい、ということや自分の良いと思った物をこだわり抜いて提供しているということを感じました。そこには儲けることだとか、経済的により豊かになるだとかそれ以前に、その人の大切にしているものが伝わってきます。日本は経済的にこの何十年か停滞しているから云々と、そんなことを考えるのはまるでナンセンスであると思いました。まずは自分自身がこうしたいという思いから始まっているのでしょう。
自分もそのことを見習いたいと強く感じた次第です。