見出し画像

大嫌いな「銀河鉄道の夜」

私は子どもの頃から「銀河鉄道の夜」がとてもとても、とても嫌いだった。一度読んで大嫌いになったのだと思う。

「嫌い」と断言しておいて、我ながら失礼なことには、なぜそうなったのかを全く覚えていない。確か小学校何年生だかの国語の教科書に載っていた記憶はある。そして猛烈に嫌で嫌で、「二度と読まない!」と体をこわばらせた感覚も残っている。しかし理由が思い出せない。

ちなみに、宮沢賢治の作品を嫌っているわけでは決してない。「やまなし」は絵本が好きで繰り返し読んでいたし、影絵を使った朗読会に参加してとても楽しかった記憶がある。「セロ弾きのゴーシュ」も好きだった。「グスコーブドリの伝記」は一時期「尊敬する人は誰か?」と尋ねられたら「ブドリ!」と答えるくらい、辛い話だけれど気にいっていた。

今回、「銀河鉄道の夜」がキナリ読書フェスの課題図書になっていると知り「すんごい嫌い(しつこい)だけど、なんでだったかな?」と考えてみていた。

ことば遣いがしっくりこなかったのかな。はやりの歌を耳にして「サビの歌詞のリズム感が苦手」とか思っちゃうことがあるしな、とか。

たしか教科書には全文掲載はされないから、前後関係が分からず消化不良を起こしたかな、とか。

国語の先生が嫌いだったかな。先生の好き嫌いで教科の好き嫌いがほぼ決まってたしな。そう言えば「わかる人は手を挙げて」と言っときながら、律儀に毎回手を挙げてたら「あなたは手を挙げすぎ」とか、理不尽な注意をしてきた教師いたな。その後で全く手を挙げなくなったら、今度は通知表に「積極的に発言しましょう』とか書いてきてたな。小学生に何の忖度を求めてたんだ。いじめか、とか。

正直、今回 のフェス をきっかけに読み返しても、内容はほぼ思い出せなかった。ただ読み終えたときに、これは「覚えていない」のではなく、読まなかったことにしたかったのだろうなと思った。

ところで、11月22日キナリ読書フェス初日。数週間前に課題図書として選び購入していた「銀河鉄道の夜」を手元に置き、開会式もリアルタイムで視聴したのに、なぜかその直後に私は、100分de名著 2018年9月テキスト「ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(和田忠彦)」を開いてしまった。

岸田さんが事前の講座で、作者や作品の背景を知ってから読むとますます楽しめます、とガイドをしてくれていたけれど、何の関連もない書籍である。ただ、偶然に前後して読んだ本にも自分なりの共通のテーマは見つかるもので、このテキストの中に、ウンベルト・エーコがその著書『開かれた作品』で、読者を2つのカテゴリーに分類していることが紹介されていた。「経験的読者」と「モデル読者」。

経験的読者とは、「この小説は面白いな」「悲しいな」など素直に反応しながら物語を進める読者のこと。モデル読者とは、この小説に作者はどんな戦略を盛り込んでいるのか、またその戦略にはどんな意図があるのか、といったことにまで思いをめぐらせる読者のこと。
-100分de名著 2018年9月テキスト
「ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(和田忠彦)

今回、数十年の時を超えて「銀河鉄道の夜」を読み直し、子ども時分の私が嫌で嫌で堪らなかったのは、きっと自分が、完全に前者の、ゲージを振り切っている「経験的読者」だったからだろうなと思った。

大人になった自分が読んでも、孤独で、寒くて、辛くて、涙が出た。

ジョバンニは、教室で先生にあてられてもうまく答えられなかったことも、カンパネルラと以前ほど仲良くできていないことも、病気の母には話さないし、おくびにも出さない。

母のために牛乳を受け取りに行く道すがらの細かな風景描写も、それらに目を向け詳細に観察することで、せめてその時間、自分の心もちから目を逸らそうとしているように思えた。

学校や家族や、状況はしっかりと見えているのに、解決する術を持たない自分。どうにか小さな希望を見つけ、心の平和を保とうとしているのに、クラスメートからは折に触れ嘲笑を受けてしまう。自分の無力さに打ちひしがれもしていただろう。

銀河鉄道ではやっと、久しぶりにカンパネルラと二人で向かい合えたのに、楽しそうに少女と二人で話し込んでいることに嫉妬してしまい、しかし目を逸らし車窓から外を眺めることしかできない。

物語の終盤で受け取った牛乳にやっと温かさを感じたけれど、それすら、すでに銀河鉄道から降りたジョバンニが抱いてしまった悪い予感の冷たさを際立たせているように感じたし、カンパネルラを失った嘆きも誰とも共有することができない。それどころか、父が帰るかもしれないと知り、悲嘆にくれるよりも、母の元へと走り出す自分の身勝手さにも引き裂かれる思いだったのではないか。

子ども時分の私が、「銀河鉄道の夜」をなぜ嫌だと感じたのかは、最早正確にはわからないけれど、きっと感情移入をしすぎて、ジョバンニを知らなかったことにしたかったのだろうなと思う。今や大人になった私が読んでも、孤独で寒くてつらかったこの物語を、楽しんで読めたとは到底思えない。

ただ、おそらく当時はジョバンニとシンクロして辛かった自分が、今回は「銀河鉄道の夜」は「辛いけど、嫌いではないかな」と思えた。ほんのちょっとだけジョバンニと自分の間に距離を置き、涙を浮かべつつも「これがすべてではないよ」と、自分をなだめられるくらいにはなれていた。そう思えた自分は、もちろん「ほんとうのさいわい」にも「天上」にもまだまだ辿りつけないけれど、あの頃よりほんの少しは成長できてきたのだなと感じられた。

ジョバンニにとっても、時の流れとともに、孤独や寒さが少しずつでも和らいでいくといいなと思った。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?