岐路に立つパイプオルガン
パイプオルガンの起源を辿っていくと、なんと紀元前、ギリシャ時代にまで遡ることができるのだそうです。「ヒュドラウリス」といって、水圧を利用して空気を送る、かなり大がかりなものだったようです。
以前、地元のホール、アトリオン音楽ホールが主催するレクチャーに参加した時、パイプオルガンの歴史を解説してくださっていて、その壮大な歴史を知りました。
初期の姿は、現在私たちが目にするような美しい装飾の楽器からは、ずいぶんとかけ離れていて、使われる目的も、大音量を出して遠くへ知らせるためだったり、コロッセウムで健闘を盛り上げるためだったりと、それは案外とワイルドな印象です。
それで思ったのは、パイプオルガンは、ずいぶんと形の変化を余儀なくされてきたのだということでした。これは私の個人的な考えかもしれませんが、改良されたというより、時の権力に翻弄されて変化してきた、という印象を持ちました。
現代の私たちにとってはイメージしやすい、教会にはオルガンがある、という事にさえも、その側面を見出すことができます。つまり、同一の設計により、同一の音階、音高を設定できる鍵盤楽器は、各教会で同じ讃美歌が演奏される事で、言わば、そこが「同一の権威」の範囲であることを示せてもいたのです。
初期のパイプオルガンは、技術的な要因からサイズはかなり大きいものでした。やがて持ち運べるまでに小さくなり、教会に取り入れられ宗教的な意味合いが加わり、やがて西洋音楽の世界的な普及とともに、日本にもやってきました。続々と音楽ホールが建てられると、こぞって設置されていくようになります。パイプオルガンは再び大型化していきました。
こうして日本の隅々にまで拡がったパイプオルガンですが、今、岐路に立たされています。
日本で同時期に建てられていった音楽ホールは、現在、同じように老朽化が進み、維持管理に大変な費用を要する大型パイプオルガンは、改めてその必要性を問われています。
必要性を問う……のはいいのですが、早くも譲渡や移設を決めたところも出てきており、あんなにはりきって導入してきたのに今になって「コストが、方針が」というのはどうしたことなのでしょう、と、つい思ってしまいます。維持費、そんなことは最初から分かりきっていたでしょうに。
地方自治体がまるで競うように音楽ホールを建て、その「顔」とするべくオルガンを設置してきたのですが……そこにあったのは意義や情熱よりも、むしろ「ハコモノ」としてのステータスのため、ではなかったでしょうか。これもある意味、行政の「権威」のためと言えるのではないでしょうか。
いっぽうで、こうも考えます。
紀元前の楽器誕生時から権威に翻弄され、それでもなお、時にはその姿を変えながら、今日まで堂々と生き続けてきました。それがパイプオルガンです。外からの変化を重ねても、人は変わらずオルガンを望みとして守り続けてきました。
もしかすると、今再び、その姿や必要とされる場所を、変化させる時にきているのでしょうか。そんなことをぼんやりと思います。だとしたら、それはどんなものなのでしょう。そこにあるオルガンの姿は、権威によるものでしょうか、心によるものでしょうか。
SF小説『海底二万マイル』をご存じですか?謎の潜水艦ノーチラス号のサロンにはパイプオルガンがあるという設定になっています。
映画のほうでは、舞台が海底なだけあって、確かオルガンが貝殻などで装飾されていました。長い間心を閉ざすネモ船長が、涙に濡れながら一人オルガンをかき鳴らすシーンがあります。好きなシーンです。
もちろん映画はファンタジーの中のお話ですが、でも、海底の潜水艦という、限られた環境、しかもその場所にあるのを望まれる楽器。強制労働を経験したネモ船長が、揺れ動く孤独な心を癒す事のできるたった一つのもの。それがパイプオルガンなのです。
岐路に立つパイプオルガン。
願わくば、権威や権力の繕いから解放されて、人間の心の声に感応した本当の姿のままで、これからも生き続けていきますように。
人の喜び、慰めとなり続けますように。