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雑記:地元を散歩



宮城県登米市、北上川を跨ぐ錦桜橋。


その河川敷にある、とある場所に向かっています。


橋の下から見ると、このような感じです。


歩きます。


見えますでしょうか?


目的地です。


更に歩き続けます。
目的地が近づいて来ましたね。


❶相模土手


慶長10年(西暦1606年)のこと。時代でいうと安土桃山時代と、江戸時代を跨ごうとしている頃。
仙台藩の藩主である伊達政宗公の命で、家臣である登米城主の伊達相模宗直に、古くから水上交通網の役割を果たしてきた北上川の改修工事を行うように命じました。それによって、新田開発と物資の輸送ルートの確保を行おうとしたのです。

国土交通省『日本の川・東北の一級河川』より



もともと、北上川は登米市北部を通って迫川に合流していたとされています。加えて、現在の北上川の流路には二股川が流れていました。北上川と迫川が氾濫したとなれば、登米の低地部は水害に見舞われていたのです。
そこで宗直は堤防を築き、北上川の迫川方面への流れをせき止めました。そして二股川に合流させて流路を一本化したのです。5年も費やしたこの改修工事により、登米での新田開発が進むこととなりました。

昭文社『地図で読み解く初見秘話・宮城のトリセツ』より


また、この工事は宗直の次代、伊達若狭宗勝にも引き継がれ、2代に渡って執り行われました。そのことから、この場所を二人の名を冠して、

相模土手、あるいは若狭土手

と呼ばれています。


❷お鶴明神


そして……
この相模土手には真偽が定かではありませんが、人柱伝説が残っています。


相模土手の工事では数多の人々が命を落としました。完成を急ぐため、台風でも作業を行ったそうです。また、完成しても度々決壊を繰り返していました。土手の修復にあたって、

生き土手にすれば、
水に押し切られることはない


という迷信から、人柱を立てる案が出たそうです。そこへお鶴という若い娘がお弁当を届けにやって来ました。人々はお鶴を襲って、生きたまま地中に埋めて人柱を立てたのです。これを憐れんだ人々は小さな祠を建てて神様として祀り、彼女の冥福を祈ったとされます。


解説はこの辺にして、人柱となった娘を祀った『お鶴明神』へ参拝します。


❸合掌


天気が晴れていて本当に良かったです。


よく見えませんでしたが、八幡神(?)を祀った小さな石の祠もありました。


現在でもしっかり手入れがなされていて、人柱となったお鶴さんへの祈りが途絶えていないのが分かります。ご冥福をお祈りします。


看板でも紹介されていた『お鶴の涙の池』も見つけました。


かわいいですね。


看板の裏面には伝承について、イラスト付きで紹介されています。さすがにお鶴さんの最期は、描写できませんよね……。


❹あとがき


実は現在、人柱にまつわる長編の作品を作りたいと考えています。その過程で全国の人柱にまつわるお話を調べていた所、地元の近く、車で行ける場所にこの『お鶴明神』があることを知りました。

僕自身の解釈ですが『お鶴明神』の伝承は、


堤防の工事で亡くなった人々のことを
長きにわたる過酷な作業だったことを
後世の人々が忘れないように創られた
教訓を含んだ、お話
なのかもしれません。

そうだとしても、そうじゃなかったとしても、流路を確立させた先人の方々の偉大さを知ることができて本当に良かったです。それは伝承のお鶴さんだって同じ。

伝承とはいえ、身近にこういった話が存在するのはちょっと怖いですね。


ひょっとしたら、


これを読んでいる皆さんの近くにも


表沙汰になっていないだけで

人柱伝説が残っているのかもしれませんね。


ここまで読んでいただきまして
誠にありがとうございました‼️


🙇‍♂️





ん?









これ、どういう意図でこう描いたんだろう……

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