祖母の認知症と最期に思うこと
今回は私の祖母の話をしようと思います。
祖母の認知症から最期について、医療職として、また一人の家族として思ったことをお伝えします。
祖母のこと
私の祖母は94歳で亡くなりました。
膝や腰が悪かったけれど、結構元気で80歳を過ぎても1人で電車に乗って150km離れた私の母(娘)のところまでよく遊びに行っていました。
当時、私はすでに仕事で実家を出ていたので、母から祖母の様子を聞くくらいでしたが、時々は実家に帰って祖母に会うこともありました。
祖母は編み物が得意で、若くして夫に先立たれたあと、セーターを編んではそれを売って女手ひとつで子供2人を育てたそうです。
もちろんそれだけでは食べていけないので、農家の手伝いをしたり、とにかく必死でよく働いたと口癖のように話していました。
そうして必死に働いたお金で土地を買い、私が生まれた頃にはその土地に自分の家とアパートを建て、息子(伯父)夫婦と孫2人の5人で暮らしていました。
その後、私が大学生の時に都市開発のため土地を売却。
ほど近くに家を建て直し、一家で転居。
ところが新しく家を建てた後、まもなく息子夫婦が離婚。
孫たちは独立して、元嫁と共に家から出て行きました。
そして、まもなく伯父は再婚。
祖母は後妻とその連れ子と同居することに。
もちろん祖母は「自分の家だから出て行く理由がない」と渋々同居を認めます。
ところが嫁姑の仲は最悪で、頻繁に喧嘩をするように。
いつしか祖母は自室に閉じこもり、伯父夫婦とはほとんど口をきかないようになってしまいました。
90歳近くまでは娘の家に定期的に滞在しながら、自宅で過ごしていましたが、何度かの病気で入退院を繰り返した後、伯父夫婦が「もう自宅ではみられない」と介護付き有料老人ホームへ入所することに。
祖母の認知症
今考えれば80歳を過ぎた頃から、少しづつもの忘れが出てきていました。
でもその段階では、年相応のもの忘れだったと思います。
怪しくなったのは「嫁が自分の部屋から着物を盗んでいく」と言い出した頃。
当時は私も認知症に関する知識が十分あったわけではなかったので、おかしいとは全く感じませんでした。
もちろん母も姉も、祖母の言うことをすっかり信じてしまいました。
でも、直接お嫁さんに「着物盗んだんでしょう」と聞くわけにもいかず、母と姉は祖母の部屋を見に行くことに。
すると本当に着物が数着なくなっていたようです。
母と姉はますます祖母の言うことを信じたのですが、私はあまり関わりたくなかったので話だけ聞いていました。
もともと祖母はポジティブな人だったのですが、母のところへ行っては後妻の愚痴を言い続け、そのうち「生きていても楽しくない」「早くお迎えが来てほしい」など表情も暗くなり、うつのような症状が出始めました。
母はそんな祖母に「何言ってるの!」と冗談ぽく返していましたが、だんだんと夜中トイレに起きた時に転倒したり、近くの病院へ行って帰り道がわからなくなる、鍋を焦がしてしまうというようなことが出てきました。
でも会話は問題なくできますし、言っていることもしっかりしているので私たちは「年だから仕方ないよね」としか思っていませんでした。
90歳を過ぎたころ、介護付き有料老人ホームへ入所し、日中はずっと自室で過ごすようになりさらに認知症は進行。
意欲が低下し、昼間もテレビも付けずにずっとベッドに横になっていました。
伯父夫婦は必要な日用品を買ってくる以外は来ませんし、母も精神的な不調で年に数回しか会いに行きません。
私も子どもが生まれたり、夫の転勤で遠く離れていたので頻繁に行くことができませんでした。
そのうちまた体調が悪くなり入院。
今度は施設ではなく、長期療養型の病院へ転院することに。
病院での身体拘束
体調不良で入院した祖母ですが、はじめは総合病院の大部屋で、日中は常に人の出入りや看護師から声を掛けられるなど刺激があったためか、一時的に表情も明るくなり、施設にいたときより元気になっていました。
やはり人と話したり、刺激があることは大事なんだなと感じました。
ところが長期療養型の病院へ転院してから、再び同じ状況に戻ってしまいます。
ある日、お見舞いに行くと祖母は経管栄養となっており、なんと両手足を紐で縛られ拘束されていました。
「このご時世に拘束する病院なんてあるの?」と正直驚きました。
そして改めてよく見てみると、病棟内はちょっと異様な感じで、廊下には医療職や掃除の人以外誰も歩いていません。
デイルームも空っぽ。
みんなベッドにきれいに布団を掛けられて寝ているんです。
時々うなり声を出す人もいますが、部屋から声が聞こえてくるだけ。
談笑など全く聞こえてきません。
心電図のアラームが鳴っている以外、シーンとしています。
なんでこんなに静かなのか。
理由は全員ベッドに縛り付けられて、寝たきりにさせられているから。
医療機関では治療に支障があり、生命に危険が及ぶ場合には、家族の同意を得て身体拘束することが許されています。
もちろん伯父も同意書にサインしたのでしょう。
身体拘束の理由は「経管栄養のチューブを抜いてしまい、誤嚥の危険があるから」だそうです。
祖母は拘束された後、しばらく身体の激しい痒みを訴えていました。
私と姉が時間があるときには交互に面会に行き、背中をかいてあげたり、クリームを塗ってあげたりしていました。
身体の痒みは恐らく、精神的な辛さが身体症状として出ていたのではないかと思います。
そのうち痒みの訴えはなくなり、寝たきりに。
私がひ孫を連れて面会に行くと、私のことを覚えているかはわかりませんが毎回喜んでくれました。
その間も母は「体調が悪いので会いに行けない」とほとんど面会に行かず。
母の家で介護することができないか聞くも、「無理」と。
実の娘であるのに、なぜ面倒をみないのか、面会にすら行かないのか。
母の理由は「自分が倒れたら、あんたたちに迷惑がかかるから」。
ただの言い訳にしか聞こえませんでしたが、無理強いはできません。
面会者は私と姉だけ。
病棟の看護師に「息子さんにこの書類にサインをもらいたいんだけど」と言われましたが、私たちが伯父と連絡を取っていないと伝えると「はあ?」と失笑されてしまいました。
祖母の最期
長期療養型の病院へ転院してから、1年ほどたって祖母は亡くなりました。
誰にも看取られずに。
伯父の話では、「気づいたら亡くなっていた」そうです。
死因は誤嚥性肺炎。
誤嚥しないために経管栄養にしたのに?
そのために身体拘束していたのに?
気づいたら亡くなっていた?
通常なら、気づいたら亡くなっていたなんて絶対に許されないでしょう。
心肺停止状態で発見されて、伯父に連絡がいったそうですが、あえて私たちは呼ばなかったそうです。
もっと何かしてあげられたかもしれない。
でも、その時の私は何もしてあげることができませんでした。
祖母の死を通して思うこと
とても悔やまれる祖母の最期だったと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は私はそうでもありませんでした。
なぜなら、何もしてあげられなかったけれど「何もしなかった」わけではないからです。
仕事と育児で忙しい中でも、時間を作っては祖母に会いに行きました。
その頃たまたま近くに住んでいたので、ひ孫にも今まで以上に会ってもらえて良かったと思います。
何より祖母が毎回うれしそうな顔をしてくれたのが、私自身が救われました。
病院の身体拘束については、本当に残念でなりません。
あの状況はどう考えても、医療職都合での拘束であり、それが日常化していました。
看護師である私からみても、拘束の必要性は全く感じませんでしたし、もっと方法はあったと思います。
その当時、私は介護保険についても無知でした。
相談先すらわかっていませんでした。
もし今なら別の病院に転院させるか、もっと良い施設へ入所させてあげられたかもしれません。
少なくとも身体拘束されて、誰にも看取られずに一人さみしく最期を迎えることはなかったでしょう。
介護について知ってほしい
そんな体験もあり、偶然?その後すぐに地域包括支援センターで保健師として働くことになりました。
介護保険ができてからすでに20年が経過しています。
もっと介護について知ってほしい。
相談先があることを知ってほしい。
その思いから介護ブログを始めました。
現在は包括支援センターではなく別のところで仕事をしていますが、介護について知ってもらいたい気持ちは今も変わりません。
今日の話はここまで。
次回はまた違うテーマでお伝えしたいと思います。
よかったら、また見てくださいね!
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