上尾に受け継がれる名将の心 書籍の仕事まとめ#15 佐伯要著「文武不岐〜上尾高校 歴史を越えて語り継ぐ〝野球の心〟」
1984年夏以来の甲子園、ならず
「釜石、長田、小豆島です」
僕が上尾高校の取材を始めたのは、2016年1月29日。この日はセンバツの出場校が決まる日でした。
上尾は21世紀枠に推薦された9校のうちの1校だったのですが、選ばれたのは上記の3校でした。
1984年夏の甲子園出場は、ならなかった。そこが取材のスタートになりました。
上尾の一塁ベンチは神聖な場所
その後、上尾高校のグラウンドに初めて入ろうとしたときのことです。
僕は足を止めてしまいました。
なぜだと思いますか?
足跡が一つもついていないグラウンドに、なにかピンと張りつめたような空気を感じたからです。
神社を訪れたときに感じたこと、ありませんか? あんな神聖な空気感です。
さらに続きがあります。
ライト側の入り口からフェンス沿いを通って一塁ベンチあたりで待っていると、高野和樹監督が来て、「どうぞ」とベンチに入るように案内してくださいました。
そのとき、一塁ベンチに砂粒一つ落ちていないことに気づきました。
僕は思わず「入るのをためらうくらい、きれいですね」と言ってしまいました。
ベンチの中は、「キレイに掃いてある」レベルじゃなかった。「清めてある」レベル。瞬間的に「僕なんかが入っていいのかな?」と感じたんです。
後になって、そこに大きな意味があると知りました。
その一塁ベンチは、「埼玉高校野球の父」野本喜一郎監督がいつも座っていた場所だったのです。
野本監督は、1966年から1970年まで東洋大の監督を務め、1971年に上尾に復帰すると、1983年までに春3回、夏3回の甲子園出場を果たしています。
野本監督は、いつも一塁ベンチのライト寄りの端に座り、穏やかに練習を見守っていたそうです。
その特別な場所を掃除していたのは、近藤陸君(当時3年)でした。
一塁ベンチを掃除する係もまた特別なもの。近藤君は1つ上の先輩と約半年間もいっしょに掃除をして、学んだそうです。
近藤君は、靴を脱いでベンチに入り、身をかがめて丁寧に、丁寧に掃き清めていました。
そこに、「この場所を大切にしよう、きれいにしよう」という心がこもっているのを感じました。
グラウンドは思いのこもった場所
高野和樹監督は、野本監督の教え子。高野監督が2年生になるのと同時に、野本監督は浦和学院へ移っています。
上尾を卒業した後は、東洋大に進みました。
そこでは髙橋昭雄監督の教え子となりましたが、髙橋監督もまた、大学時代の4年間野本監督の指導を受けています。
高野監督は、「野本監督、髙橋監督から教わった野球のすばらしさを高校生に伝えたい」と、高校の教諭になりました。
高野監督が上尾に赴任して初めての練習でやったのは、グラウンド整備だったそうです。
上尾のグラウンドには、野本監督がおられた。東洋大のグラウンドには、髙橋監督がおられた。グラウンドというのは、そういう場所であり、歴代の先輩が大切にしてきた場所なのです。
高野監督の話。「このグラウンドは思いのこもった場所にしないといけない。僕は野本監督や髙橋監督のような圧倒的な存在感や佇まいはないですけど、やはりグラウンドにはそういうものが宿っている。それは生徒たちに伝えたい」
練習が終わると、暗くなったグラウンドには、トンボで地面をならす音だけが聞こえてきました。
腰を低くして、ゆっくり、丁寧にトンボをかける。部員たちの姿は「このグラウンドを日本一きれいにしよう」という心の表れでした。
形にこだわるのではなく、心にこだわっている。そんな感じがしました。
原稿に込めた思い
グラウンドと一塁ベンチに漂う厳かな雰囲気ーー上尾高校の取材で、鮮明な記憶として残っています。
埼玉で私立の壁を破り、再び甲子園へ出場するのも大切な目標でしょう。
でも、それ以上に、このグラウンドに宿る伝統を受け継いでいくのも、大切なことなんだーーそんな思いを込めて、原稿を書きました。
あれから時が経ちましたが、上尾高校のことは今でも気になっています。
このnoteを書いていて、あのグラウンドにまた行ってみたくなりました。
本書には、ほかにも著名なライター陣が執筆した作品が掲載されています。
ぜひお読みください。高校球児が壁を越えようとする姿に、心が動かされると思います。
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