ぼんやりとした「多様性」を追いかけたとしても
最近、よく「多様性」について考えていて。
「多様性」は、ただ単に性別や年齢、国籍とかそういう括りだけでなくて、その人固有の価値観や生活スタイル等まで含まれているもの、という考え方は、なんとなくわりと認知されてきたような気がする。なんとなく、だけれど。
それはとても喜ばしいことだと思っていて、本当の「多様性」というのは、性別や年齢のようにわかりやすく線引きできるものではないと思っているから、ずっと、「マイノリティ」って何だろうね、「マイノリティ」って何で定義されるんだろうね、ということを自分の中でも考えているし、自分の周りの人や、できればできるだけたくさんの人たちと一緒に考えたいと思っている。
その一方で、固有の価値観や生活スタイル、環境とかまで広げると「多様性」そのものがぼやけるというのも、なんとなく感じている。それはもはや、形のないものだ。
個が個として、「多様性」のひとつである。それはとても真理だと思うし、あるべき姿と思うと同時に、その「多様性」の理解を深めるためのアプローチはどうやってすべきなのだろうか、という課題も感じてしまう。
「みんな違って、みんな良い」って、みんながずっと昔から見聞きしている言葉で、どこかで理解はしているはずなのに、差別や偏見はなくならない。あれ、なんで、同性婚って認められていないんだっけ、ってなる。個が個であることを認めること。多様性って、そういうことじゃないんだっけ?と。
そんなことを考えていると、ひとつ思い当たったことがあったので、書こうと思う。
私が2年ほど前にパニック障害を発症し、ちゃんとした治療もせず誰にも言えずに必死の思いで働き続けていたころ、自分とそれ以外の人、という線引きがくっきりと見えたときがあった。街を歩いていても、会社のフロアを見渡しても、同じ病気で苦しんでいる人がいるようには見えなかった。自分だけが病気で、それ以外のひとは普通の人。そういう線引きを、自分の頭の中だけでくっきりと引いた。(もちろん、そう見えただけで、実際に世の中にはいろんな問題で苦しんでいる人がいることは理解している。それでもそのときは、自分だけだ、と思ってしまった)
けれど、そう思っているのは自分だけだった。この病気は、発作が起きているとき以外では、他人にはまったくといっていいほど気付かれない病気なので、誰一人として私を「マイノリティ」であるという線引きをしていなかった。職場の人も、友人も、恋人も。普通に生活を送っているのだから、当たり前と言えば当たり前だった。
心身ともに疲弊しきって、あぁもう隠しきれない、隠したくない、ここにはいれない、と思ってビジネス街にあるでっかいオフィスを飛び出したとき。ふと思ったのは、「あぁ、LGBTの人って、こういう気持ちなのかもしれない」ということだった。
なんでそこでLGBTなの?と、不思議に思う人もいると思う。私はたまたま身も心も女性で、恋愛対象も男性というセクシャリティに生まれていて、実際にLGBTである人からしたら「いや、そんなもんじゃないよ」と思う部分もあると思う。けれど、そう思ったのは、間違いなかった。
見た目にはわからないということ。自分で言わなければ、他人には気付かれないということ。だからこそ、周囲はあまりにも「普通の人」のように自分に接してくるということ。
もちろん「知られたくない」という思いもあった。でもそれと同じくらい「知ってほしい」という気持ちもあった。それくらい助けを求めていた。
けれど、思いもよらぬ形で「知られる」「バラされる」ことで「知ってほしい」という思いが満たされることはない。むしろ、その逆だと思う。自分の中の正直な気持ちで、「知ってほしい」が「知られたくない」を上回るとき、そのときはじめて、自分の言葉で自分のことを説明したかった。
私の場合は、先に身体における症状の限界がきてしまって、強制終了になった。でも、強制終了のときでさえ、「この人には言っていい」と思える相手だけには、自分の言葉で、自分の悩みを話したいと思ったし、実際にそうした。きっと自分の知らないところで尾ひれがついて話が拡散されていたりすることもあるのだろう、と今でも思っている。けれど、症状が落ち着いてからこのnoteを始めて、私自身の周囲もそうだし、それだけでなくて一般的な理解を求めていけたら、と思ったりしている。
私はエンタメが好きで、いろんなドラマ・映画・舞台・音楽、、、様々なジャンルのものを楽しみ、そこから影響を受けることが多い。
最近、放送中のNHKドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る。』を観ている。毎回、主人公であるゲイの「安藤くん」にものすごい感情移入をしてしまい、胸が苦しくなる。「安藤くん」が、人に自分がゲイであることを知ってほしいと思っているかどうかは、私にはわからない。けれど、直近放送回で、一応"彼女"である「三浦さん」に、自分がゲイであることを打ち明けたこと、そしてそれが意図しない形で別の人にバラされ、結果として「アウティング」になってしまったことに、涙が止まらないほど私まで傷付いた。
言いたい相手と、言いたい内容は、そのときのシチュエーションによって異なるものだ。それは、自分のパーソナルな問題であればあるほど、とてもデリケートなものであって。人がうわさすることや、勝手にばらすことの罪の大きさは計り知れないと思う。「安藤くん」は、「三浦さん」になら言いたい、言える、と思って言っただけであって、それは、自分の意図しないところでクラス中に知れ渡ることとは全く別の意味をもっている。
ぼんやりとした「多様性」という言葉を、ぼんやりと捉えてぼんやりと理解することも正しいと思う。けれど、私が思ったのは、他人からして「目に見えてわかるもの」と「そうでないもの」で、苦しみの種類は少し変わるのかもしれない、ということ。程度も内容も全く異なると思うけれど(程度なんて特に、人によって違うし比べるものではない)、私が自分のパニック障害で経験した気持ちと、LGBTに、なにか共通したものを感じたのは、事実だった。それから、LGBTを巡るあらゆる問題が、実感として、他人事に思えなくなった。
エンタメというのは、基本的には「つくられたもの」だ。元々が実話であるものもあるしノンフィクションの分野ももちろんあるけれど、エンタメをフィクションとして楽しむとき、いつもそこには、何かしらの「真実」があると思っている。それがエンタメの醍醐味だ、とも思う。何かを表現するとき、そこには、どこかの誰かが抱く「本当の気持ち」の欠片が混じっていたりする。つくったひとの気持ちが、埋め込まれていたりする。それが自分の琴線に触れたとき、人は感動するんだと、私は思っている。
今回はドラマというかたちで、私は「真実」を見せつけられた気がしたし、私の琴線というか、全てといっていいくらいの部分に衝撃を受けた。どう感じるかは、人によって違うんだろうと思う。それでいいし。ただ私は、その衝撃や気付きを与えてくれたドラマに感謝するし、もう一度、ぼんやりとした「みんな違って、みんな良い」っていう理想をどうやって叶えるの?っていうことを、考え直したいって思った。
気持ちのままに、ばーっと書きました。長文・乱文ですね。
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Sae
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