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放熱の記録

いつの間にか、大学院を卒業していました。

いつの間にかというか、そりゃもう2年経ったし修士論文も書いたのでそりゃ卒業するだろって感じなのですが、それくらい、私の内側ではぐるぐるしたものがずっとあり、その螺旋のなかにいるうちにいつの間にやら、という感じでした。

最近何してるの?とか、大学院のこと教えて欲しいな、とか声をかけてくれる方が多くて、関心を持ってくださることにとても喜ばしく思いつつも、どう書けばよいものか、とずっと悩んでいました。私も書きたいのですが、答えが見つからないのです。

たった今、お風呂を出て髪の毛を乾かし、ストレッチをしながら録画していたNHKの『the Covers』Coccoさん出演回を見ていたのですが、その歌声があまりに素晴らしく、歌詞に心動かされ、「あぁ、このどうしようもない感情を、まとまりなく溢れるものを、そのまま書けばいいんだっけか」と遠い過去の感覚をなんとなく思い出したので、いても経ってもいられず発作的にnoteを開きました。かれこれ8ヶ月ぶりらしい。開きながら、あまりの久しぶりの画面に「うわぁ〜〜〜〜」って声出た。笑

大学院に入学する直前までは、「大学院に行ったらたくさん書けることがあるだろうな」と思っていました。特に修士1年目は講義も多く、日々新しい体験をし、新しい学びを得るわけなので、紹介したいことも多くあるだろうしたくさんのことを考えるだろうと。私が学んだことは、すぐに書いて世の中に還元するんだ!と無邪気に息巻いていました。

もちろんたくさんの知識を得て、たくさんのことを考えたのは本当なのですが、それで「書けることが増える」と思ったのは私の間違いでした。

というのも、大学院で講義を受け、目から鱗が落ちるようなことや、あぁなんて私は浅はかな考えでモノを言っていたのだろうと思うことが重なるたびに、人様が苦労してまとめあげた論文や、ものすごい精査を繰り返して「知」として積み上げられたものを、私がブログでサラッと「世界ではこんなふうに言われているらしいよ」と紹介するなんてとんでもない、と思うようになったからです。

ここ数年、書籍はもちろんのこと、いわゆるノウハウ系のweb記事、アカデミックな知識をわかりやすく伝える、サクッと言い切り型のコンテンツがめちゃくちゃ増えたように感じます。私にとってはただ気持ちを表現するだけの場だったnoteの画面にも、情報商材的な匂いのものやノウハウやキャリアの表面を語るものが増え、それを求めている人が多いということは理解しつつも、自分の心と頭が全くそこに馴染まないことも感じていました。

大学院に行って一番よかったと思うことは、世の中には「確実なもの」なんてほとんどないということがわかったことです。もっと具体的に言うと「人間は〇〇な生き物らしい」「女性は男性より〇〇」「こんな環境にいると人はこうなる」などなど、わかりやすく並べられていることは大概、ものすごく偏った一部の文献・情報のみを参考にしているのでは、と疑えるようになりました。極端にわかりやすいものは、大概「一部」を切り取って、それを「全て」のように見せかけているだけだと。

例えば、本当に例えばですが、「日本人はパンより米が好き」という言説があるとしましょう。2年前の私は「たしかに日本人は米好きだよね〜。生まれた時から白米食べてきたし。私も好きだし、よく食べるもん」と思っていましたが、今の私にとっては疑問しか生まれません。まず「日本人」の定義はなんだろう?と思います。国籍?生まれた場所?育った場所?育った場所だとしたら、何年?何歳から何歳までだったら日本人?その研究ではどんな定義で行われたの?西暦何年から何年まで日本にいたら日本人なの?それはなぜ?その定義を用いて「日本人」とする理由は?と。そして、ここではどのような調査をした結果なのか?どんな性別の、何歳くらいの、何人を対象に、いつ、どんな環境で?アンケート?インタビュー?どこの都道府県で?どんな文言で質問した?「好き」は、「味が好き」という意味?「よく食べる」という意味?いつ食べるか、は聞いた?....

こんなような質問が無限に出てきて、おそらく修士論文レベルで調査結果としてまだ信憑性があるかな...?と思うような言い方は「19〇〇年から20〇〇年にかけて○年以上日本国内に居住していたひと○○人に『米とパン、どちらを食べる方が好きか?』という文言でオンラインによるアンケート調査を実施した結果、6割超が『米』と回答した。なお、調査対象者の居住地は〜〜県、〜〜県、〜〜県の順に多く〜〜、性別の比率は〜〜、平均年齢は〜〜歳....」くらいでしょうか。これでもまだかなり不安になるくらい物足りない気がしています。(が、今考えただけのただの一例なのでおおめに見てください)

要は、どんな調査結果もそれは「絶対」でも「完璧」でもないし、どこかに必ず穴(足りない視点、もしくは量など)はあるし、似たような論文でも全然違う結果になることもよくあるし、もうとにかく、言い切れるようなことなんてほとんどないということです。私は文系領域で研究をしていたので特にそうなのかもしれません。(でも、理系分野でも、感染症関連であーだこーだ言われても『まだ治験の数が足りないからなんとも言えない』とか『〇〇の属性の母数が少ないからはっきりしたことは言えない』などと専門家の方が困っているのを何度も目にしたので、その度に、そりゃそうだよな、と思っていました)

長くなりましたが、とにかくそんなふうにいろんな論文を読んで「なるほど〜」と思っている間に、「これ、私がブログで書けることはないな」と思ったのです。私が思っていたほど簡単でも単純でもない。私が発信する情報を鵜呑みにされてしまったらどうしよう、そもそも一つの論文を書くのにどれだけ大変かを知った今、簡略的に「こうこうこうらしいよ」とインターネットの海に投げ出すことがどれだけ軽率で恐ろしいことか、と恐怖すら感じるようになりました。言い切れることなんて何もない、と怖くなったのです。

冒頭で書いた「螺旋のなかで」というのは、こういう感覚です。ぼんやりと自分の中で知が溜まっていくのがわかると同時に、その輪郭はわからないままで、それをどう処理してどう伝えればよいのかわからずぐるぐると脳内を巡り、ものすごい熱を出しながら背中には大量の冷や汗をかいているような、脳と体に熱がこもっているような感覚だったのです。

こんなに繊細な知を前にして、私ごときが口を出せることなんて一つもない。そう思い、だからあんまり表で「こんなことを学んだんだよ!」「世界ではこんなふうに言われているらしいよ」と言えなくなり、結果、「どんなこと研究しているの?」と謎な人物に仕上がりました。

「研究」って、ものすごく壮大なものに聞こえるじゃないですか。でも、めちゃくちゃ地味なんです。上の例でいくと、「東京都在住の100人」に調査した結果が分かったとしても「世田谷区在住の1000人」だったら結果が違うかもしれないよね、じゃあ世田谷区在住の1000人に調査してみよう、というのがリアルの研究だったりする。壁にちっちゃな穴が空いていたとしても誰も気づかないけれど、そこに穴が空いていることには変わりなく、研究の世界ではそれは大きな穴であり、その細かーーーーい穴に粘土を埋めるために必死に調査をして論文を書く。それが実際の「研究」でした。何か新しい細胞を作り出せる、とかそんな壮大な結果はほんの一握りで(そしてその裏ではきっと小さな穴を何度も埋めてきたはずで)、大部分は薄皮をそーっと重ねていくような作業です。5年前の先人が作った薄皮の上に、そーっと自分の薄皮を乗せる。そんな感じでした。ほんと、かつお節くらいの薄さよ。

そんなこんなで、自分の内側に溜めておいたものが溜めっぱなしになっている、ということです。

この内側をどう処理しようか、とずっと悩んでいましたが、何も進展する気配がありません。日々は恐ろしいほどに早く過ぎていき、目の前の課題は山積、信じられないくらいのスピードで日々いろんなことが起きます。感情も脳みそも忙しいも忙しい、ぼーっとしてたらすぐにいろんなことを忘れます。大学院を卒業してもう2週間が経ちました。文字通りあっという間です。

そして、いくら怖いからといって、知をアカデミックな世界の中だけに閉じ込めるままでよいのか?よいわけないだろ?とも思うのです。今をときめく(これは皮肉です)女性活躍推進について研究していたので、それ関連の論文をたくさん読みましたが、はぁ〜〜〜、こういうことを何も知らずに政策を作っている人や企業内で施策を考えている人、記事をかいている記者などがほとんどなんだろうな、と思いました。それはその人たちを責めているというよりは、それくらいアカデミックな世界でわかっていることと現実で起きていることの間にギャップがあると思ったのです。もったいない、もったいなさすぎる、と強く思いました。(これは、社会人が大学院に行くことにはものすごく価値がある、と強く思う理由でもあります)

だからもう、悩んでいることすらも共有したほうがいいんじゃないか、そうやって頭の中を整理して心を整えて、動き出したほうがいいんじゃないか、と思い、今回は書いた次第です。

本当は「こんな研究したんだよ」って言いたい。書きたい。たくさんの人に協力いただいて、何十時間も人の話を聞いて紡いで、拙いながらも2年間を真摯に捧げた論文。でも、それをうまく、大切に、乱用されることも簡略化することもなく、丁寧に人に伝えられる力が自分にあるのか、よくわからないのです。でも、書きたい。うーん。

テーマは女性管理職についてですから、うまいこと書けばそれなりの人に読んでもらえるのかもしれませんが、綺麗なまとまったものを出して終わりにするのは何かが違うな、と私の中で叫んでいます。

壁の穴に入ったちいさ〜〜〜〜い粘土の塊、興味を持っていただけるのでしょうか。どこかの誰かの、役に立てるのでしょうか。私は、役に立ちたいなぁ。

noteを書き始めた頃から、私にサポート(投げ銭)をしてくださる方へのメッセージは「『誰しもが生きやすい社会』をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。」です。ずっとこれです。今もこれ。これが、私の心の中にはずっと残っているのです。今読むと、当時の自分の言葉の選び方、そして未熟さに恥ずかしさと愛おしさが込み上げてきますが、全て嘘じゃない。今でも、内側では同じことを思っています。

まだまだ悩む日々は続きますが、完璧を求めるのではなく、走りながら探していきたい。そう思って、書きました。

もしご興味あれば、引き続きお付き合いくださいませ。

Sae

P.S  「なんだって書けばいいじゃん」と不思議なくらい背中を押してくれたCoccoさんの『光溢れ』という曲、MVのリンクを置いておきます。


いただいたサポートは、私のテーマでもある「マイノリティ」について考える・発信するために必要な書籍購入費に使います。必ず社会に還元します。