私は、この名前を「持って」生まれた
「Sae」という名前は、本当に何の変哲も無い、つまらない名前だな、といつも思う。
noteやTwitterを開いたときにタイムライン上に表示される数々の名前たちは、どれも個性に溢れていて、工夫があって、時にはアイコンと連動する形になっていたりもして、あぁ、みんなの名前、面白いな、と思う。
「Sae」で検索すると、たくさんのアカウントが出てくる。noteでも、Twitterでも。一度見たら忘れられないような名前でもない。もっと面白くてキャッチーな名前に変えた方がいいのかもなぁ、とも思った。何度も思った。
けれど、それでも私は、「Sae」以外の名前にすることが考えられなかった。なぜなら私は、自分の名前が心から大好きだから。
私の名前は、「冴」という。
「冴」の一文字で、「さえ」と読む。
この漢字が、私は大好きでたまらないのだ。
これ以外で、自分のことを表現できる名前を、私は知らない。
さえる/頭がさえる/身にしみるほど冷える/澄む/腕前が優れた/色が鮮やか/こおる
「冴」という漢字には、こんな意味があるらしい。親からは「『色が冴える』というように、色鮮やかな人になってほしい」という意味を込めてつけた、と聞かされた。
一番よく使われるのは、「頭が冴える」だろう。たまに「頭をシャキッとさせる」という意味で、コーヒー飲料の商品名に使われたりもする漢字だ。
パッとみた時に鋭い印象を受けるから(なんてったって、漢字のほとんどが「牙(きば)」で出来ている)、シャープな印象を持たれたり、名前だけを見て男性と間違えられることも少なくなかった。
小学6年生の頃、中学受験をした。中学受験では時折、選考過程の中に面接が含まれる。小学生相手に面接だなんて、何だか残酷だなぁと今なら思うけれど、当時の私は「大人に聞かれたことを答えればいいんだ」とシンプルに思っていた。「冷えた」子どもだったなぁと思う。
面接当日、3人ほど並んだ大人たちに、こんな質問をされた。
「あなたのお名前は、どういった意味があるのですか?」
私は、『頭が冴えるように、と付けられました』とハキハキと答えた。
面接官は、一度クスッと笑い、それから真顔に戻り、こう言った。
「その名前は、あなたにとってプレッシャーではありませんか?」
『いいえ、大丈夫です』
私は動じずににっこりと微笑み、こう答えた。
ここは進学校に入学するための面接の場なのだ、ということを、子どもながらにしっかりと意識していた。だからこそ、少し大人びた答え方をした。そしてその時の私は、「色が鮮やかである」という意味を、あまりよく理解していなかった。
それから、いろんな強がりを繰り返して、大人になった。
強そうだね
頭良さそうな名前
キリッとしてる
珍しいよね
男の子みたい
その全てに特別感があって、それはそれで嬉しかったけれど、それがこの名前の全てではないことを感じていた。
色が冴える、とは何だろう?
鮮やかって、何?
澄むって、どういうこと?
こおるって、何が?
そう、「冴」の持つ、あまりにも感覚的なところが好きだ。
そこには、理屈がない。言葉として知ってはいても、それで思い描くものは、人によって全然違う。たくさんの解釈を、許している。それがとても好きだ。
時にクリアな脳内を持ち、
時に冴え渡る青い空に身を委ね、
時に色鮮やかな存在に酔いしれる。
強くもなり、弱くもなれる。如何様にも形を変え、如何様にも想像でき、如何様にも捉えられる。その柔さと強さが、染み込んでいる。そんな「冴」という漢字は、とても自分らしいと思えるし、そんな自分でありたいとも思える。まるで、名前が自分を象徴してくれるように。
わかりづらくて、厄介な私だけれど。
この名前だけは、何があっても奪われない、私の宝物。
この名前と、一生を添い遂げることができることを嬉しく思う。
超えることもなければ、置いていかれることもない。
概念として、一生、交わり続けるもの。
それが、私の名前。
冴
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