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茶道における「わび」の精神①

みなさんこんにちは。東洋大学茶道研究会です。
最近は突然寒くなってきましたね。この時期は特にお茶の温かさが恋しくなります。

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さて、茶道には様々な特徴がありますが、前回まではその中でも作法の成立過程について見てきました。この作法と同じくらい重要な位置を占めているものに、「わび」(侘・佗)の精神があります。
茶道の中では実際に「侘・寂」や「佗茶」という単語でよく用いられますが、それではこの「わび」とはどのような意味を持っているのか、改めて考えていきましょう。『日本国語大辞典』には以下のように記されています(「*」は用例です)。

(1)わびしく思うこと。思いわずらうこと。気落ちすること。
*万葉集〔8C後〕四・六四四「今は吾は和備(ワビ)そしにける気(いき)の緒に思ひし君を許さく思へば〈紀女郎〉」
*俳諧・田舎の句合〔1680〕二一番「佗に絶て一炉の散茶気味ふかし」
(2)閑居を楽しむこと。また、その所。
*浄瑠璃・曾我扇八景〔1711頃〕紋尽し「檜の木作りも気づまりさに、わびのふせ屋の物ずき」
(3)茶道・俳諧などでいう閑寂な風趣。簡素の中にある落ち着いたさびしい感じ。
*咄本・醒睡笑〔1628〕八「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや 利久はわびの本意とて、此の歌を常に吟じ」
*南方録〔17C後〕覚書「惣而わびの茶の湯、大てい初終の仕廻、二時に過べからず」
*俳諧・続の原〔1688〕「梅の侘、桜の興も、折にふれ、時にたがへば、句も又人を驚しむ」
(4)(詫)あやまること。謝罪すること。また、そのことば。
*上井覚兼日記‐天正二年〔1574〕八月一五日「川上上野守殿藺牟田地頭御侘被成候」
*浄瑠璃・信州川中島合戦〔1721〕三「おわびおわびと心を揉む」
*読本・近世説美少年録〔1829~32〕三・三〇回「翌快(とく)起て賠話(ワビ)せん」

ここから分かることは、「侘」と「詫」は同語源であり、古くは(1)の用法で使われていたものが、織豊期に(4)の意味が加わり、江戸時代前期に(2)(3)の意味が加わったということが分かります。
また(1)には「わび」の形容詞である「わびしい」が使われているので、更に「わびしい」を調べてみると、以下のように記されています(用例は省略)。

(1)気落ちして力が抜けてしまう感じである。 (2)当惑の気持である。困ったことである。 (3)やるせない気持である。 (4)物足りない。面白くない。興ざめである。 (5)みすぼらしい。貧しい。 (6)物静かである。また、張り合いや慰めがなく、心さびしい。

ここからは、全体的に「わびしい」という単語にはネガティブなイメージで用いられていたことが分かります。つまり「わび」という単語は、当初はネガティブな単語であり、江戸時代前期頃からポジティブな意味に変わっていった、と言うことができます。

ここで1つ疑問が生まれます。通常、茶道の歴史を学ぶと、「村田珠光が佗茶をはじめ、武野紹鷗を経て千利休が大成した」というような解説が多いかと思われます。しかし「わび」という単語のみを分析すると、茶道の精神として用いられるのは江戸時代に入ってからということになるのです。

また、高校の日本史Bを選択していた方であれば、学校教育では、「わび」の精神は元禄文化で出てきたことを覚えているかもしれません。学問的にも、日本における「わび」の精神は、松尾芭蕉らの蕉風俳諧が流行したことによるとされています。
蕉風俳諧は、それまでの派手な俳諧を嫌い、無為自然(何も作為を加えず素直に自然に従う生き方)を重視する道教の影響を深く受けています。たしかにこの無為自然の思想は、日本における「わび」の精神に近いものがあるといえます。

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つまり、茶道では室町時代から佗茶が始まっている一方、日本では「わび」の精神は元禄文化からである、という差が存在することになってしまいます。今回はここまでで、次回はこの差に注目して更に話を深めていきます。

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参考文献:
『日本国語大辞典 第二版』小学館、2000-2002
国史大辞典編集委員会編『国史大辞典』吉川弘文館、1979-1997
篠山晴生・佐藤信・五味文彦・高埜利彦編『詳説日本史』山川出版社、2015
今日庵茶道資料館『茶道文化検定 公式テキスト3級:茶の湯がわかる本』淡交社、2013

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