ママがやった方が早い。それでもあなたにやってほしい理由を書いておく。
今朝、娘がウインナーを床に落とした。
「ママ、とって」
2歳8ヶ月の娘が命令口調で言う。私は32歳にもなって、娘の口調にイラっとして「自分で取りなさいよ」と息む。まさに売り言葉に買い言葉。
「ママ、とってってば!」
「自分で取りなさい!」
「いやだ!ママがとるの!」
どんどんヒートアップして、娘が大きな声で泣きはじめた。ママがとるの、ママがとるの、と泣き止みそうにない娘を見ていると、「何故、ここまで頑なに私にウインナーを取ってほしいのか?」と疑問がふつと湧いてきた。
とりあえずウインナーを皿にもどす。そして、一度抱っこしてソファーに座り、抱きかかえながら尋ねてみた。
「なんでママが取らないといけないの?」
「……ママがとったほうがはやいの。あかり(娘の名前)、とるのつかれるの」
目を涙いっぱいにして訴えてくる。その目の清らかなこと。
ふーむ。確かに。2歳の頭でよく考えているなと、むしろ私が頑固一徹「自分で取れ!」と言っていたことが恥ずかしいようにも思える答えだった。
そう、床に落ちたウィンナーを拾うことくらい、大人の私がやれば少し屈んで手を伸ばすだけ。ものの1秒もかからない些細なこと。一方で、2歳の、90センチの娘はどうか。ウィンナーを拾おうとすると、一度子ども椅子から降りて、しゃがんで、ウィンナーをとって、背伸びして机の上の皿に入れ、また椅子によじ登るようにして座らなければいけない。それが言葉の数が少ない娘の、「つかれる」という単語で形容されるのだとすれば、それはそうなのだろう。少なくとも、私が「食卓から落ちたものを拾う」労力と、娘のそれとは全く異なるものだった。むしろ、ママが落ちたものをやすやすと拾う姿を見て「ママが拾った方が早い」と思考する、それは至極当然だ。よくそこまで考えて、言ってくれた。と褒めるべきところかもしれない。
しかし、だ。
そうして私が手伝っていたら、いつまでたっても娘は落ちたものを拾うことができないだろう。そうして、自分ができることまで、私に頼る癖がつく。私は子どもは健康でいてくれればなんでもいいと思っているタイプだが、ひとつだけ「自分で自分のことができる」人間になってほしいと思っていて、だからこそ、そこはちょっと譲れなかった。もちろん、できないことは人に頼るべきだし、適切に頼る能力がなければ、人は健やかに暮らせない。でも、健やかに人を頼り、人に頼られる最初の一歩は「自分に何ができて、何ができないのか」自覚することだ。そしてそれは、幼い頃からのトライアンドエラーの積み重ね。恥ずかしい失敗、やりたくない練習、できないかもしれない諦めのその先に、ようやく見えてくるものなのだ。
私が一番恐れているのは、娘が本来、自分の力でできることすら、自分で「できない」と思い込んでしまうこと。自分でできた時の、もしくは、できるピースを持ち寄って仲間と協力しあった時の、素晴らしい高揚感を逃してしまうこと。だから、だから、ママはまだ幼いあなたにも「自分でやってみて」というんだよ。「お手伝いはするから、できることをあきらめないで」娘の小さな心に届くように、できるだけかんたんなことばで、目をみて、手を握って、伝えてみた。
「わかったよ、ちょっとだけだよ」
娘が親指を小さく突き出してきた。最近覚えた「Good」ポーズ。私の腕の中から飛び出して、食卓の椅子によじ登る。
冷めてしまったウインナー。娘はちゃんと、フォークを使って食べはじめる。「ママ、一緒に食べるよ」と生意気な口をききながら、ちゃんとお皿に手を当てている。落とさないように、工夫をしているんだね。
よしよし、こうして二人、少しだけ階段を登った朝。記憶の波に埋もれるささやかな出来事。忘れやすい1日の記録を、今日も書いておくことにします。