とん津【掌編小説】

 最近、学食には滅多に行かなくなった。大学裏の商店街にあるトンカツ屋に通っているからだ。「とん津」と書いてトンシンと読む店で、少なく見積もっても七十は超えようかという深い皺の主人が一人で切り盛りしている。
 友達は誰も知らなかったが、ゼミの先生に「とん津」の名前を出すと「ああ、あそこ。へえ、まだやっとんのか」といつもの関西訛りで感心したように言った。随分昔からある店らしかった。
 店内は狭い。テーブル席はなくてカウンターだけ。客は学生や大学職員もいるが、スーツ姿のサラリーマンや作業着のおじさん、地元の爺さんらしき人も座っている。男ばかりが揃って揚げ物を掻き込んでいて、会話らしい会話はまったくない。ただ黙って昼飯を食っている。テレビやラジオも流れていない。箸が茶碗にふれた時のカチカチという音と、油の撥ねる音、まな板の上でキャベツを刻む包丁の音だけが響いている。
 注文を受けると主人は小さく「あいよ」と答えてトンカツを揚げ、無言で皿を出す。食べ終わった客はさっさと会計を済ませて出て行ってしまう。申し合わせたようにみんな低い声で「ごちそうさん」とだけ言う。自分もそれに倣うようになった。
 年季の入ったロースカツの味も好みだが、通っている理由はこの店の雰囲気が気に入ったからだ。一人で昼飯を食べる。その時間が安心する。
 仲の良い友人達はみな内定をもらい、もはや消化試合となった大学生活を楽しんでいる。自分一人がまだリクルートスーツ姿で面接の予定を確認している。落ちたものは仕方が無い。これからの秋採用に賭けるしかない。頭ではそう分かっていても、楽しそうにクリスマスや卒業旅行の予定を話題にしはじめた彼らを目の前にして、くさらないと言ったら嘘になる。
 「とん津」にはどこにも定休日が書いていない。月曜から金曜までやっている。いつ行っても開いている。土曜日もやっているようだ。日曜日に大学に行く用事があって店の前を通ったら、開いていた。つまり年中無休ということになる。主人は一人で毎日働いているのだろうか。
 「奥さんがおったはずやけどなあ」
 先生は「とん津」からの帰り道でそう言った。いつものように店内に入ると、カウンターに腰掛けている先生の姿があった。目が合うと先生は「よお」と片手を挙げたが、主人と他の客にじろりと見られて引っ込めた。何を言われたわけではないが、その雰囲気に飲まれてお互い話しかけられず、横に並んだまま黙々と昼飯を済ませた。会計は自分の分まで先生が払ってくれた。
「君から話をきいたら、久しぶりにいきたくなってしまってなあ。僕みたいなお喋りにはなかなかキツイ店やけども」
 先生は咥えていたつまようじを道に放って話し続けた。
「でも確かに奥さんと二人でやってはったはずやわ。それは覚えとる。どうしたんやろな、体でも壊しはったんかなあ。他に誰かおらんとしんどいやろうなあ」
 確かにいくら小さな店だといっても、一人で回すのは大変そうだった。特に洗い物の手つきはどこかぎこちなく、間に合わない食器が積み上げられていることもしばしばだった。
「で、それはそれとして、君はまだ就活中なんか。あきらめずに頑張らなあかんで、昼飯おごったんやから気合い入れてもらわんとな」
 思い切り肩を叩かれて苦笑いを返した。先生と出会う直前にスマホに”お祈りメール”が届いていたからだ。選考に残っていた中では、面接もうまくいっていたし、入りたいと思っていた会社だった。キャンパスの木々を揺らす風はもう冷たかった。重い気持ちでカレンダーアプリに登録していた次の面接予定日を消去した。
 次の週、就職課で斡旋された中小企業の面接を駆け込みで受けた。機械部品メーカーの営業職という、まったく興味のない仕事だったが、受け答えはうまくできたように思う。数ヶ月も面接ばかりをこなしていれば、場に慣れてもくる。その後も選考はとんとん拍子に進み、最終面接の案内が届いた。会議室に居並ぶ重役達を前にして、自分はいかにこの会社に入りたいかを饒舌に語った。満面の笑顔と身振り手振りでパフォーマンスをした。パイプ椅子に座りながら熱弁を振るう自分を見つめる、もう一人の空虚な自分がいた。頭の中に浮かんでいたのは、何十年も興味のない仕事を淡々と仕事をこなした、年老いた自分の顔だった。その日の夕方、担当者から不採用の電話を受けた。
 「とん津」のシャッターが下りていた。驚いて駆け寄ると白い紙が一枚貼りつけてあった。
『五十年間の長きに渡り、ご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。本日をもってとん津を閉店いたします。 津田勘一郎 美代子』
 セロテープで留められた紙には、太く達者な字でそう書き付けられていた。
 五十年。半世紀もの間、「とん津」は営業していたのだ。にわかには想像しきれない時間だった。しばらくその貼り紙を眺めていたが、ふと思い至って鞄からペンを取り出し、余白に『長い間お疲れさまでした』と書いた。どうしてそんなことをしてしまったのか分からない。翌日は久しぶりに学食に足を運んだが、白飯をほおばりながら貼り紙のことが段々と気になってきた。あの気難しそうな主人の勘に障って剥がされているかもしれなかった。午後の授業が終わった後、回り道をして「とん津」の前を通った。貼り紙は変わらずあった。ほっと安堵した次の瞬間、思わず目を疑った。貼り紙の余白が無くなっていた。隙間にびっしりと書き込みがあったからだ。
 様々な筆跡の『お疲れさまでした』という労いの言葉がそこにあった。
 金木犀の香りが漂いはじめた秋の風に吹かれて、その貼り紙はシャッターの前でひらひらと揺れていた。
 長い間、お疲れさまでした。もう一度心の中でつぶやいた。そしてシャッターの閉まった店に向かって小さく頭を下げ、夕映えの商店街を帰った。通りがかりの子ども達が不思議そうな顔をしてこっちを見ていた。

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 勘一郎は居間の座卓の前で四角い紙に向かっていた。一度深く呼吸をすると握りしめていた筆ペンを紙の上に走らせた。
『五十年間の長きに渡り、ご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。
本日をもって』
 勘一郎はわずかに眉を曇らせ、
『とん津を閉店いたします。 津田勘一郎』
 残りを一気呵成にかき上げて息を吐いた。ペンをしまおうとして手を止めた。美代子の名前も書いておくか。
 夫婦二人でやってきた「とん津」だ。妻の名前も並べておくのが筋だろう。勘一郎はそう思って自分の名前の隣に『美代子』と書き添えた。少々バランスが悪くなってしまったが、まあいいだろう。
 妻が脳卒中で倒れてから三ヶ月、一人で「とん津」を回してみたが限界だった。娘からは病院にも顔を出さず、開ける必要のない店を続けている薄情な父親だと思われているに違いない。娘には分からないだろう。病院に行って寝たきりの顔を見ても、美代子に会った気がしない。「とん津」の中でせわしく働いているとき、そこにふと長年連れ添った妻がいる気がするのだ。
 勘一郎はそう自分に言い聞かせ、無理矢理に店を続けた。定休日も無くして毎日店を開けた。本当は体が麻痺し、唸るような声しか上げられず、用も一人で足せなくなった妻の姿を見ることに耐えられなかったのだ。世話はすべて娘に任せて働いた。「とん津」は勘一郎にとって体の良い逃げ場所でもあった。
 だが、体を酷使するには勘一郎は年を取り過ぎていた。膝が、腰が、肘が、指が、体中の関節という関節が悲鳴を上げ始めた。一日の仕事を終えて居間への階段を上るのに足腰が立たず、這い上がることしかできなくなった。潮時だろう。老人は覚悟を決めて紙とペンを取った。
『本日をもってとん津を閉店いたします。 津田勘一郎 美代子』
 いつもなら店を開ける時間だった。シャッターを押し上げる代わりにテープで紙を貼り付けた。灰色の壁に小さな白い紙が一枚揺れている。勘一郎はずっと続いていた長い映画が終わったような不思議な感じがした。
 五十年は長かったが、あっという間でもあった。小さな店だったが「とん津」は勘一郎にとって仕事の現場であり、家族の居場所でもあった。人生を生きてきた唯一の証といってよかった。
 その日勘一郎はひたすら眠った。若い時分ならいざしらず、年をとってからこれ程寝たことはなかった。溜まっていた疲れが出たのかもしれなかったし、緊張の糸が切れたからかもしれなかった。あるいは変わってしまった現実を夢の中に閉じ込めたいのかもしれなかった。勘一郎は夢とうつつを繰り返し、時おり用足しにいく以外は眠りつづけた。布団から出られたのは翌日の夕方のことだった。娘からいい加減に病院に来たらどうかと催促の電話があった。勘一郎に断る口実はもう無かった。まだ面会時間に間に合うことを確認して寝間着を着替えた。
 勝手口から出て裏を通り、正面へと回った。夕暮れの商店街の風景はいつもと変わらなかった。授業を終えた学生たちと子ども達、買い物帰りの主婦が行き交っている。ただ「とん津」のシャッターだけは重く下ろされたままだった。勘一郎がバス停に向かおうと店の前を横切ったとき、ふと視界の隅に違和感を感じた。閉店の貼り紙にたくさんの落書きがしてあるように見えた。文字が小さくてよく見えないが、近所の子供の悪戯だろうか。勘一郎は何が書かれているのか気になって、上着の胸元から老眼鏡を取り出した。

 レンズの向こうに現れた文字は、すぐにまた滲んで見えなくなった。
 勘一郎は胸の奥から突き上げてきたむせび声を必死で押し殺した。人に顔を見られないよう腕で覆った。肩を震わせたまま、その場から動くことができなかった。
 秋の夕陽に商店街の街灯の青白い光が交じり始めた頃、勘一郎はシャッターの貼り紙に手を伸ばした。そしてそれをゆっくり剥がすと丁寧に折り畳んで胸元にしまった。深い皺の刻まれた顔を微かに綻ばせ、長く伸びた影を引きながら、勘一郎は妻のいる病院へと向かった。

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