猫に乗る【掌編小説】

　大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出すと、私の体はだんだんと小さくなっていく。セーターが縮んでいくみたいに。部屋の天井が段々と遠くなり、テーブルの脚が視界に入ってくる。緑色のカーペットの毛並みは草原のようにどこまでも続いているし、開けっ放しの掃き出し窓から春の砂まじりの風が吹き込んでくる。

　四月の空はどこかマゼンタがかった淡い水色だ。

　白い毛に包まれた脚が目の前に現れる。リオネルの前脚だ。この分別のある雄猫は、この街に越してきたばかりの私にとって初めての友人。

　私はリオネルの体毛をしっかりつかみ、得意な木登りように前脚を登っていく。リズム良く、両手と両足を動かしていく。眼下の草原が遠のくにつれて、期待が満ちていく。落ちないように、私はぐっと力を込めて体毛を握りしめる。かすかに鳴き声が聞こえてきたので顔を上げると、鋭い瞳が何か言いたげにこちらを睨んでいる。どうやら強く引っ張りすぎていたらしい。ごめん、私が謝るとリオネルの長い髭がもういいよ、と揺れた。

　猫背と言うだけあって、猫の背中は毬のように丸い。それにリオネルはツヤのある毛並みをしているから、油断すると私はすぐにバランスを崩してしまいそうになる。彼の付けている赤い首輪が手綱の代わりだ。しっかりとつかんで、跨がる。その瞬間、リオネルが素早く立ち上がる。彼も早く春の陽気の中へと飛び出したくて待ちきれないのが伝わってくる。さ、いくよ、私は彼の尖った耳に向けて、そう言葉の鞭を入れる。

　乗ってみれば分かる。猫の動きは本当にしなやかで、無駄がない。リオネルはあっという間に掃き出し窓からおもてに出て行く。その間、私の体には不自然な力は掛からない。庭に着地する時も、衝撃はすべて体全体のバネと、足の裏の肉球に吸収されてしまう。一切の音も無く、まるでアラブの空飛ぶ絨毯に乗っているみたい。滑るように、私たちは庭に咲くタンポポをかき分けていく。白い綿毛が複雑な軌跡を描いて風に運ばれていく。

　去年、祖母が訪ねてくるまで、私は自分にヨーロッパ人の血が流れていることを知らなかった。どうして秘密にされていたのか。そのあたりの経緯は、不幸な歴史や戦争や、それに伴う数々の悲劇や、差別や憎悪が折り重なっていて、とても一言では言い表せないけど、自分自身の中に普通とは違う異質な血が混じっていると知って、何となくああやっぱりな、と腑に落ちた感じがあったのを覚えている。妙にしっくりとした〈なじみ〉があった。異国の血というのもそうだし、普通の人間とは違う特殊な血が流れていることにも。

　ふと気がつくと、リオネルは立ち止まり、体を地面に擦りつけるように低く屈んでいた。目の前には灰色のブロック塀が立ち塞がっていた。いけない、私は慌てて首輪をぎゅっと握りしめ、頭が体毛に埋もれるくらい、彼の体にぴたりとひっついた。次の瞬間、リオネルは彼の体の何倍も何倍も高く跳び上がり、颯爽と塀の上へとその身を移動させた。細いブロック塀の上を、リオネルは庭を走り抜けるのとまったく変わらないスピードで進む。何の恐れも感じさせない。塀の端まで辿り着くと、躊躇なく飛び降りる。その動作があまりにも自然だから、私は驚きの声を上げることもできない。地面が一気に近づいてくる。視界いっぱいに広がっていく。ビルの屋上から飛び降りたようで、私は心臓がひっくり返りそうになるけど、リオネルは涼しげにヒゲ一つ動かさず、華麗に着地を決める。音も衝撃も無く、そっとドアを閉めるように。どこかの家の裏路地を無遠慮に通り抜け、再び壁が迫れば跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。気がつくと私たちはもう屋根の上にいる。雨どいにそって歩き続けている。猫にとって、街は三次元の道のりなのだ。前へ後へ。右へ左へ、上へ下へ。人間がつくった街を、人間よりも自由に進むことができる。

　青い目をした祖母は言った。たどたどしい日本語で、私に会えて嬉しいと。そして遠い昔から伝わる魔女の言葉を教えてくれた。

　猫の背に乗って、屋根の上から眺める街は私の冒険心をくすぐった。家々の屋根が太陽の輝きを反射して眩しかった。新しい生活は光に満ちたものになるだろうか。一人でもの思いに耽る私に呆れたのか、ふいにリオネルは屋根の上でごろりと横になった。私の体は放り出され、リオネルの隣に転がった。彼のしっぽが空の雲を背景に揺れていた。

　ねえ、そのしっぽ、貸してよ。

　私がそう言うと、リオネルはゆっくりとしっぽを降ろしてくれた。私は頭をしっぽの上に乗せ、春の穏やかな空を心ゆくまで眺めていた。