蝶の図書館【掌編小説】

「ご専門は文学ですか? それとも歴史学?」

「いいえ、博物館学ですよ」

 館長の問いに私はそう答えた。

「ほう、それは初めて耳にする学問です。博物館を研究していらっしゃるのですか?」

「左様です。世界各地の博物館を調べ、訪問し、記録し、分類する。それが私の研究なのですよ」

 入館録に名前を書きながら答える私の言葉に、館長は大きく頷いた。メガネの奥の目が柔らかく微笑んでいる。いかにも人当たりのよさそうな老人だった。

「当館にお越しになる方は、ほとんど文学か歴史の研究者の方ばかりです。他には近所の子供と年寄りがチラホラやってくるくらいですかな。首都の図書館に比べればこぢんまりとした私設の図書館です。しかし全ての蔵書はもう手に入れることが難しい貴重な価値をもつものばかりです」

「その噂を聞きつけて、長い時間をかけてはるばるやってきたのですよ。わざわざ汽車を四つも乗り継いでね。博物館学の見地からみても、こちらは非常に興味深い図書館です。それに……」

 私は探るようなまなざしで老人を見た。

「……蔵書の方法が、特殊だとうかがったものですから」

 窓ガラスが風に吹き付けられて音を立てている。夜更けから嵐になるとラジオが言っていた。老人はじっと私を見つめ返してきた。

「どちらでそれを……?」

 そう尋ねてきたが、特に問い詰めるような響きではなかった。私が含みをもたせてにやりと口角を上げると、彼も観念したように微笑んだ。

「いいでしょう。人の口に戸は立てられませんからな。それにどうしても秘密にしなかればならないという訳でもないのです。ただ、私の祖父の遺言でいたずらに広めるなといわれているだけなのです。まあこちらへ」

 老人は受付の椅子から立ち上がり、奥へと進んでいった。こぢんまりとした図書館と彼は謙遜したがそんなことはない。ホールの天井は高く、緋色の絨毯は年月の風格を帯びてはいるものの、清潔でしみひとつなかった。窓から差し込む落日間際の光が、舞台の照明のように書架を照らしていた。

「この図書館は私の祖父がつくりました。元々は村一帯の領主の館だったそうです。それを買い取り改築したと聞いています。祖父は本の蒐集家で、戦争の好景気で稼いだ財産のほとんどを、本につぎ込みました。私が学校にあがるかあがらないかの時に亡くなりましたが、子供心にも偏屈で何を考えているのかわからない、怖い人間だった印象があります」

 歩みを進めながら、私は老人の言葉に耳を傾けた。

「祖父は一風変わった方法で、書物を保管する方法を見つけました。書物のあり方を変える素晴らしい発見でしたが、祖父はそれを世間に広めようとはしませんでした。祖父にとっては自分の本と、それを収めたこの図書館こそが世界の全てだったのでしょう」

 大きな樫の扉の前で老人は立ち止まり、振り返って言った。

「まず外套と帽子を脱ぎ、カバンと一緒にそちらの棚へ置いてください。できればポケットのある上着も脱いでいただけると助かります。誤解しないでいただきたいのですが、貴方を疑っているわけではありません。これは規則なのです」

「もちろん分かっています。しかし何だか昔読んだ童話のようですな。次はなんだったでしょうか。裸になって小麦粉を体にはたくのでしたっけ」

 老人は咳き込むように小さく笑った。私は言われたとおりに外套と帽子と脱ぎ、荷物と合わせて棚に置いた。

「上着は勘弁していただけますか。長旅で疲れてしまったせいか、体調が思わしくないので」

「分かりました」

 老人はそう言うと目の前の扉をゆっくりと押し開き、私を中へと招き入れた。

 鎧戸を閉め切っているのか、それともそもそも窓が無いのか、中は一筋の光もなく、真っ暗だった。私が戸惑っていると暗闇の中でマッチをする音がした。老人の指先に玉のような光が灯っていた。彼はどこからかランプを取り出し、マッチの火をランプの芯に移した。老人は言った。

「しばらくお待ちを」

 彼はランプを手に部屋の奥へ進んでいった。思ったより広い場所のようだった。

「この大広間は元々、貴族が舞踏会をするダンスホールだったそうです。華やかなりし時代、と言ったところですかな。この建物自体が博物館のようなものです。天井の大きなシャンデリアが見えますでしょうか。当時はクジラのオイルを詰めて火を灯していたと聞いています。非常に珍しい一品で……」

 老人はとりとめの無い話をしながら、壁の燭台にとりつけられた蝋燭に火をつけて回った。闇のベールが一枚ずつ取り払われると、ここが壁や柱に美麗な装飾を施した豪奢な間だということが分かった。かつて貴族がひしめいていた優雅な社交場。しかしいま、その場所の主役は精悍な紳士でも可憐なな淑女でもなかった。夥しい数の書架がその地位を譲り受けていた。

「確かに驚くべき蔵書ですな。個人が集めるにはよほどの年月と財産が必要だったでしょう」

 私は感嘆したように言ったが、実のところ少し落胆してもいた。確かに素晴らしいコレクションだが、この程度のものなら今までに何度も見たことがある。片田舎の金持ちの道楽。その趣味の範疇を超えるものではない。しかし、あの噂が本当だとしたら……。

 私の心の内を見透かしたように、老人は一冊の本を手に取り、私の前にやってきた。古い哲学書のようだった。

「貴方が見たいのはこれでしょう」

 彼は本を水平に寝かせて持ち、慎重にその表紙をめくった。そこには一匹の蝶が挟まっていた。

「これは……一体……」

「これが私の祖父が発明した、書物の保存方法ですよ。祖父にとって書物とは、紙の束ではなく、そこに書かれている言葉でした。祖父は言葉そのものを愛し、それを集めることに人生を注ぎました」

 そう言いながら老人はページを繰った。どのページにもしおりのように蝶が挟まっていた。

「この蝶の羽をよく見てご覧なさい。びっしりと文字が刻まれているのが分かるでしょう」

 私は身を乗り出し、本と蝶を凝視した。確かに、そのページに書かれている文字すべてが銅版画のように一字一句違わず、蝶の羽に転写されていた。

「驚きですな……このようなことが可能とは……」

「驚くのはこれからです」

 そう言いながら老人は片手で蝶をつまみ上げ、そのまま上へと放った。蝶は空中で息を吹き返し、羽ばたいた。

「おおっ……!」

 私は今度こそ本当に感嘆の声を挙げた。羽ばたいた蝶の羽から銀色に輝く鱗粉が舞い、それがランプの灯りに照らされていた。そしてその光の粉が、空中で文字を形づくり、私の前に言葉となって現れたのだ。それは空中に浮かび上がる書物だった。

「なんと……! なんと……!」

 私は本来の目的を忘れ、冷静さを失ってその光景に見入った。老人は二匹目、三匹目の蝶を放ち、そのたびに新しいページが私の目の前に現れた。

「蝶の羽に言葉を写し取る。この方法を知っているのは、今はもう私だけです」

「なぜですか、こんなに素晴らしいものを。黙って一人で抱え込んでいるなど、馬鹿げている。それはもはや罪に等しい行為ですよ」

 私は老人に向かって声を荒げた。彼はそっと本を閉じ、言った。

「しいて言えば愛情のようなものでしょうか。私は物心ついた時からこの場所で育ちました。若い時分には首都で仕事についていたこともありますが、結局ここへ帰ってきました。祖父は私にとって恐怖の対象でしたが、祖父の残したこの図書館と本は私の愛すべき居場所なのです。私はただこの家で残り少ない人生の穏やかな時間を過ごしていたいだけです。私は客人を家に招き、もてなすことはできます。しかし他人が我が物顔で上がり込み、めいめいに騒ぎ立てることは好みません。ましてや、家のものを勝手に持ち出すことには我慢ができないでしょう」

「しかし私はそれが欲しい」

 私は上着の内側に手を伸ばし、拳銃を取り出した。そしてその銃口を老人に向けて言った。

「黙って渡してもらおう。しばらくすれば仲間もやってくる。大人しくしていれば危害は加えない。悪く思わないでくれ。もう分かっただろうが、世界各地の博物館を調べ、訪問し、価値のあるものを奪い、売却する。これが私の仕事なんだ」

 老人は眉間に深い皺をよせて言った。

「汚らしい盗人が」

「深夜には嵐になるそうだ。時間がないから手際よく終わらせたい。死体の処理をする時間も惜しい。頭の後ろで手を組んで床にうつぶせになれ」

 そう命令したが、老人は微動だにしなかった。私は彼の足下に向かって発砲した。乾いた音が響き、絨毯に黒い弾痕が残った。

「言うとおりにしろ。さあ」

 老人はそれでも動かなかった。私はもう一度引き金を引き、老人を撃った。銃弾が彼の左肩に突き刺さり、手にしていた書物が落ちた。数匹の蝶がページの隙間から逃げ出し、虚空に複雑に重なり合った文字を描いた。驚くべきことに銃弾の洗礼を受けても老人は膝さえつかず、その場に直立したまま体を崩さなかった。私の目を見据えて言った。

「祖父の遺した言葉どおり、いつかこの日がやってくると思っていた。こういう時にとるべき行動を私は祖父から教えられている」

 老人はそう言い放つと、私の傍らにあった書架に向かってランプを投げつけた。ランプは粉々に砕け、白灯油が一面にまき散らされて燃え上がった。燃焼する油は私の衣服にも大量に飛び散り、私はその火を消そうと床の上を必死に転がった。

 気がつくと部屋のあちこちから火の手が上がっていた。老人がありとあらゆるところに油を撒き、壁の蝋燭を投げつけているのだ。塵と羊皮紙の焦げる匂いが充満していた。

「くそっ、何てことだ」

 せめて数冊だけでも持ち出してやろうと、私はまだ炎に飲み込まれていない書架に近づこうとした。その時、老人が何事かを叫んだ。天井のシャンデリアが目の前に落下してきて、ガラスの破片と中に詰められていた液体をまき散らした。行く手を塞がれた私の鼻にガソリンの刺激臭がした。次の瞬間には部屋の中央に巨大な火柱が立ちのぼっていた。揺らめく熱の舌が私の顔を舐めて炙っていった。私は反射的に両腕で目の前を覆った。前髪がその一瞬で焼け焦げていた。火柱は室内の書架をひとつ残らず飲み込み、得体の知れない生き物のように膨らんでいった。もうどうのしようもなかった。

 私はすべてを諦めて逃げ出した。広間では炎の熱気で恐ろしい旋風が起こっていた。その激しい風に煽られて、放り出された本のページがめくれていた。数えきれないほどの蝶が燃えながら飛び上がり、真っ赤に照らし出された広間に銀色の言葉を描いていた。老人の姿はもうどこにも見えなかった。

 玄関から飛び出した私は、庭の中程まで走りきったところで振り返った。日没とともに、しだいに強くなる風に吹き付けられて、火の手はゆっくりとしかし確実に屋敷全体を覆っていった。そして、やがてその巨大な炎の中から、燃える蝶の群れが飛び出し、宵の空に無数の言葉を刻みながら昇っていった。

 私は焦げ臭くなった上着を放り投げて座り込み、苦々しい思いでその美しい光景を眺めていた。

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