呪いはどこでかかった?
自分が取り入れた考えに縛られるというおかしなことになっている。
私は間もなく50歳を迎えようとしている。もちろん両親も同じペースで歳を重ねているのでもれなく高齢だ。加齢と共に身体の不調も増えてくる。最近は母が変形性膝関節症と診断され、歩くことが困難になってしまった。この年齢になってお恥ずかしい話だが、家族の食事は未だに母に頼っている。週末は私が料理するともあるが、平日は仕事があるので、母も気を遣って私に頼ることを控えているようだ。
しかし歩くのが辛そう。台所を横歩きするだけでもどこかに手をつきながら「痛い、痛い」という声を漏らさずにはいれないようだ。それを手伝わないとき、私は鬼ではないだろうか?とすら思ってしまう。
以前、なにかの講演会で50代独身の女性が、自分はいま母親と同居できて、近くでお世話できることが本当に幸せだと話していた。結婚して所帯を持っている兄弟よりも、親の世話ができる自分は幸せだ、と。
すごいな、、、。この人は向こう側へ行ってしまった人だ。自分にはわからない感覚だった。この講演会はもう10年も前のことだが、未だに折に触れて思い出す。自分がその時の彼女の年齢や状況に近づいたからかもしれない。そして、いつの間にか私は「そう思わないといけない」という呪いにかかっていた。
私はまだまだ子どもで、親の世話をするという自覚が少ないし、まだまだ自分がやりたいことだけをやりたい。到底「喜んで親の世話をしよう」という気になれない。そしてそれに対して強い自己嫌悪感を感じる。私って最低な人間なんじゃないだろうか。生み育ててくれた恩を仇で返すのか。そんなことはしたくない、したくないんだけど、助けたいという気持ちも湧いてこない。私は人でなしか。
この苦しみはやっぱりあの講演会で聞いた呪いが原因になっている気がする。「喜んで助けたいと思わなくてはならない。」そしてそう思えないという現実が私をろくでもない人間と定義する。そこからは、本当に感じていること(”したくない”)を認めないように抵抗し続ける。抵抗することって疲れる。
思えば、田舎で生まれ育った私はずっと家を出たかった。都会に出て素敵なマンションや家に住んで、とにかくおしゃれな生活に憧れた。純粋にそうしたかったと言えばそうだが、両親の生き方や田舎の生活への抵抗ではなかったか?と聞かれれば否定もできない。私の人生の選択には少なからず抵抗がベースにあったのかもしれない。
でも、だからなんだというのか?動機が抵抗であることが悪いと誰が決めたのか。これだって価値判断でしかない。抵抗から行動して成功した人だって世の中にはたくさんいる。
結局、自分は自分の考えや価値判断に苦しんでいるだけなのだ。そう思うと、解決策は自分に取り組むこと。自分をそういう思い込みや価値判断から解放させることができたら、世界が少し違って見えるかもしれない。