窓を眺めて時間を潰していた小学生だった私に伝えたい:「ファッションが好き」って言っていい。
「ファッションが好き」と、私は、なぜ声を大にして言えないのだろうか。
おしゃれになりたいな、なら幾らでも言える。それなのに、ファッションが好きと表明することに、「私なんて」と要らぬ遠慮をしてしまう。そんな遠慮、必要ないのかもしれません。だって、ファッションって、もっと人間臭いもの。「空気」の様な存在なのかもしれない。当たり前すぎて見えなくなっているだけで、ファッションがなかったら、人は誰も生きていけない。
私はなぜ、ファッションが好きと声を大にして言えないのか。
幼稚園で、ママゴト遊びならお母さん役だけだったから?
小学生で、背が高すぎて着る服がなくなったから?
中学生で、いわゆる「モテル女子」でなかったから?
そういう瞬間が、きっかけかもしれない。
でも、その全てが、今の私を作ってくれているのも事実。
人って、痛みを受け入れることで、優しくなり、強くなるのだと思う。
そして、ファッションにはその全てを包み込む包容力がある。
思いの丈を思いっきり表現して、この世に叫びたいことを声高に!
音を立てずに叫ぶ。
面白くなってきた。
酸いも甘いもかみ分けて、
今日も生きている。
だから、生きている限り、「ファッションが好き」と言っていいんだと思うって、私は「窓を眺めて時間を潰していた」あの頃の私に伝えたい。
実はこれまで、
私は「伝える」という事に全く興味がなかった。
でも、「一人にでも伝わったら、それは影響力」と、ある師が仰っていた。
それなら、まずは、自分に伝えていきたいと思う。
そして、ファッションが好きと言えずにいる人にも伝えたい。
私は、少し変わった子供だった。
小学1年生で牛の絵を描いた時、
描きあがった牛の足が、三本だった。
教室に張り出されたとき、クラスの誰かが「さっちゃんの絵が変!」って叫んだ。
私は焦った。牛舎に座ってスケッチをしたとき、そう見えたのに。。
先生が「よく見て描いたんだね」と言ってくれた事に救われた。
伝えるって難しいなと思った瞬間だった。
あの頃からかな、「難しい」=あきらめた方がいい、と思って暮らしてきた。
でも、今は、「伝える」に正面から向かい合いたい。
できれば、自分の思いをそのまま、まるごと。
私は家族と話すときにも、不自由がある。
日本語なら、自由自在に言葉を選んで気持ちを届けられるのに。
私の家族はアラビア語を話す。
私のアラビア語なんて、喧嘩言葉に、市場の言葉くらいだ。
英語の会話は、話せば話すほどに不自由を感じる。
やはり、日本語で話すようには上手くいかない。
でも、
ファッションなら、「伝える」という事ができるのではないだろうか。
世界中の人に向かって、
言葉を介さず、
その瞬間に、
自分の想いを真っすぐに伝えられるのだから。
ファッションとは、何だろう。
空を飛ぶ自由な羽かもしれないし、
魔法の杖なのか。
空想力、想像力のすべてをつぎ込んで、
現実世界に立ち向かう術なのか。
いや、もっと冷静な存在かもしれない。
「客観的に見ることで、
相手がどう見るかを想像する事が、大切だから」と、師もおっしゃっていた。
思いやり、なのかもしれない。
「袖振り合うも他生の縁」と言うように、
きっと昔からそうしてきた事なのだと思う。
当たり前すぎて、見えなくなっているのかもしれない。
ファッションとは、空気なのかもしれない。
私は昨日大きな刺激をあびた。政近氏のマインドとファッションを学ぶ学校の説明会に参加した。最後までは聞けなかったのだが。パーソナルスタイリストという職業を産み出した人が、今、新しい学びの学校を始めようとしている。そんな燃え上がる情熱が、ぐわぐわ音を立てる。マグマの様な情熱が地上に出る時を今か今かと待ちわびている。ファッションが好きだ、と声を上げることができるのは、ほかでもない、私であり、あなた。