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ピラティスを完全無敵の万能薬と言いたかった
引きこもる癖がある。
気持ちが落ちたり、もやもやしていたりすると、引きこもる。
引きこもるといっても仕事も子育てもあるので外には出ている。家事もそれなりにする。でもSNSから遠ざかり、気に入った小説をひたすら読んで、現実世界に蓋をする。それが私の引きこもりかただ。
何故気持ちが落ちるのかと言えば、ここ最近は決まって同じテーマで、自分の提供しているものについてだ。
私が提供しているもの、提供したいと思うものが、100%素晴らしい!!
そう言えないことについて、堂々巡りの自責思考が始まる。
私はピラティスのレッスンを提供している。自分自身の身体とも日々向き合う中で、「このやり方が果たしてベストなのか」という問いが常にある。
その問いがあるからこそ、枠を越えて勉強したいことが出てきたり、より身体への理解を深めたいという気持ちが湧いたりするのだと思う。
でも、迷いなく全力で「私のやり方がベスト!」と言いたくなるときがある。
そう言えないことに消耗するときがある。
何度目かの堂々巡り中であるここ数日、心に残る言葉と出逢った。
全く畑は違うが、ある人が言っていた。
「自分のやっていることが、この業界にとって、ゼロか、多少なりともプラスになればいいと思ってやっている。マイナスになるようなことはしたくない」
うわーーーー ガツンときた。
その人は間違いなくその業界の一線で活躍している方だ。
なんて謙虚な在り方なのだろうか。
それに比べて自分はなんて傲慢なのだろうか。
そうだ、そうだよね。
私は、ピラティスを完全無敵の万能薬と言おうとしていた。
言えない自分が情けない、と思ってしまっていた。
でもそうじゃない。
そんなものこの世にない。
ピラティスの恩恵は数えればキリがない。
体型管理に役立つし、肩凝りや腰痛が改善していくクライアントも見てきた。自分の背骨の動きに全集中する時間は他の何をするよりマインドフルな時間だし、自分の動きの癖、カラダの癖を分かりながら生きることができているのもピラティスのおかげだ。
そういうことを無視して、自分を含めた全ての人の全ての問題が解決しないからってピラティスを貶めるなんて、なんて失礼なことをしていたのか。
私がうだうだ言っていたら、医療に携わる身内からも言われた。
「万人に効く薬なんてない。だけど10人に1人に効果が出て助かる人がいたなら、その存在意義はある」
多分、私にこの先、身体の仕組みの全てが完璧にわかる日は来ないだろう。この世の仕組みとか、そういうレベルなんじゃないかと思う。
自分の身体のことをどうこうできるとか、増して人様の身体をどうこうできると思うなんておこがましいにも程があるのに。
私はやっきになってコントロールしてやろう!と息巻いていた。
そもそも山や木や川や天気や、その他のものと同じで、それはコントロールしようとするものではないのだとようやく気がつく。
私にできるのは、寄り添うことだ。
寄り添って、そのときのその人の最善に一緒に向かうことだ。
また堂々巡りすることがあるだろう。
無いものを探しに行くようなことをしてしまう日もきっとくる。
その都度、自分自身、目の前の人やものと真摯に向き合おう。
それしかできないんだから。
自分にはそれしかできないし、できないことはやらなくていいことなのだろう。
最近、娘の幼稚園の先生に、小学校に進学するのが不安だということを打ち明けた。
ちょっとの間、不安じゃないふりをしていた。でも間違いなく心に不安があった。一人で登校できるか不安だ。お友だちができるか心配だ。それを言葉にしたことで、幾分心が軽くなった。
蓋をしたいような気持ちに蓋をするのはなんの役にも立たないどころか事態を悪化させることがある。
苦しいときに堂々と苦しいと言えるようになるのも、大人になるということなのかもしれない。
冬の間に枯れてしまったと思っていた庭の木に新芽が芽吹いていた。
もうすぐ、春が来る。