差分をつくるひと、差分をなくすひと
仕事において、差分をつくる人が好きだし、差分をなくす人が好きだなーとしみじみ思う。
差分というのは、「違い」のこと。
(差分をつくるひとは、かっこいい言葉で言うと、チェンジメーカーというのかもしれない。かっこよすぎてボツだな…)
どういう差分を生みだせるのか?
差分をつくるひとは、自分のコミットによりその社会や組織にちがいを生み出すひと。昔、人事面接をする仕事をしたときに「採用面接官は応募者がどういう差分をうちの会社に生みだせるかを聞くんだよ」と口酸っぱく言われていた。当時は、その意図は難しかったけれど、いまはよくわかる。その人がいるのといないのとで、組織と社会にどんな差分があるのか?という、究極の問いにこたえられるか。(この問は精神的にも身体的にも安定していないときつい問いかけだとおもう)組織の中で自分のポジションを築き、社会の中でこの組織のポジションを築けるひとが、必要だという意味だったんだろう。
そういえばわたしは自部門のインターン生や職員に、ずっと「自分のポジション築いてね」というようなことを、言っていたような気がする。とても大変だったと思うけど、自分なりに学び、周囲の強みを把握して頼りながら、自分なりのポジションを築いて価値発揮しているスタッフを見ていると、あらためてすごいなあと思う。このメンバーでもっといろんなことがやっていけそうな気がする。
生み出した差分を、どうやったらなくせるか?
一方で、差分を生みだし、ポジションが築けるひとに次に必要なのが、「差分をなくす」ことなんだなと思っている。
自分がいるのといないのとで差分が生まれることを恥ずかしいと思うフェーズが来る。わたしは、差分をなくす仕事ができるひとも好きだ。自分がいなくても価値が生み出せる組織をつくり、社会をつくること。再現性を高められること。そのためにはベッタリと自分に張り付いていた役割を手放す必要がある。
その役割を手放したとき、はたして自分は自分なのか?
でも、こんな問いが沸き起こると思う。「その役割を手放したとき、はたして自分は自分なのだろうか?」と思うはずだ。組織のミッションや社会への価値発揮を考えたときに、頭で考えたらまちかいなく手放したほうがいい。でも、そうすると、自分はいったい誰なのだろうかと思う。個人としては、アイデンティティショックがおきる。
差分をなくして再現性を高めるのがひたすら得意な人は、マネジャーとしてのポジションでそこにいたらいい。
でも、「差分をつくるのが得意な人が、差分をなくさなければならなくなってアイデンティティショックが起きる」は、起こりがちなのかなと思う。どうかそのひとは、次の変化を起こせるところにいてほしい。はやめにいまの役割を手放して、また新たな差分をつくりに行ってほしい。
そして、経営者が考えたほうがいいことは、そのひとをいかに「新たな差分を生みだすところに置かせられるか」なんだろう。