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私について(自己紹介)

皆様はじめまして。
メディテーションヒーラー長谷部幸代です。


2010年よりインドネシアという国に住み始め、「自分を大切にする」「心穏やかに過ごす」をテーマに日々を過ごしている私です。

現在は首都ジャカルタと、昔から住みたかったバリ島とを往復する2拠点生活をしています。


幼いころから生きづらさを感じ、他人との距離の取り方がわからず、いつも人間関係に悩んでいた私が、HSP(Highly sensitive Person)だったとわかり、瞑想と出会ったことで自分と向き合い、自分を深堀できるようになりました。

そして結果、ありのままの自分を受け入れられるようになり自分らしさを認識し、毎日充実した楽しい暮らしを送っています。



私のプロフィールを簡単にお話したいと思います。

我が家は子どもの頃は決して裕福な家ではありませんでした。友達の家に沢山あるおもちゃが羨ましくて仕方のなかったのを今でも覚えています。ただ、昭和の時代なんて、そんな人たちは沢山いたと思いますが、小学校に入学した時、1年生の担当の先生に言われたひとこと


今時、車を持っていない家なんてあるんですね!

当時我が家の交通手段はバイクだけでした。
↑この一言までは私もまったく気にしていませんでしたが、人が持っていて自分が持っていない事は恥ずかしい事なんだ、とこの時に初めて知りました。



大人になってから、なぜ我が家にお金がなかったのかはわかるようになるのですが(父親に原因があったのですが)、我が家の父親はちょっと特殊だったと思います。


父親は家にはほとんどいなく、幼い頃の父親との記憶はほとんどありません。父親の仕事先は通えない距離ではないのですが、夜の接待がとにかく忙しく終電に乗れないため単身赴任をしていました。

我が家の父親は、とにかく世間体を気にする人でした。どんな発言も行動も、世間では、一般には、普通は、とそれが口癖で、普通はどうなのかネットで調べてみろ、誰かに聞いてみろ、とよく言っていました。

激しい亭主関白で普通では考えられない異常な家庭でした。

  • 目の前にある箸を右から左へも動かさない

  • 自分の目の前の電話が鳴っていても電話に出る事はない

  • 自分以外の客様が来たら挨拶もしない

  • 自分が「ご飯」と言ったら遅くても10分以内に母親が食事の支度

  • 行動は常に10分前行動

  • 母親はどこに出かけていても、父親が帰宅する前までに帰宅していなければいけない

  • 母親が旅行に行って、いない時の食事は全部準備していく

  • 休みの日に出かける予定をしていても父親の気分が変わったら中止になる


こんな父親からの影響は、とにかく大人になっても続いていました。そして、我が家は本当にお金がなかったのですが、両親ともに高卒という事が理由で(だと思うのですが)子どもは3人とも大学まで行くことになりました。
兄と弟は大学に行かない、という選択肢はなかったと思いますが、私はそもそも大学には行く予定がありませんでした。

それでもとにかく世間体を気にする父親と安定を望む母親の元、大学だけでも、という全く名も知られていない地元のFラン大学を卒業することになりました。

そのFラン大学卒業というのも、ずっと私の中で学歴コンプレックスとなってまとわりつきました。まあ今思うと高卒で終わりだったとしてもコンプレックスになるでしょけどね(笑)


私はこんな両親の元で生まれ育ち、とにかく

こうでなければいけない!

間違ってはいけない!

という思いが非常に強い人生を送っていました。


それでも私が人生で何度か、これだけは絶対譲らない!!と頑固に自分の意思を通したことがあります。


二十歳の成人式の時
振袖を一式レンタルすると80万円とかする金額を見て、はぁ!?1日着物を着るだけでこんなにかかるの??と思い、要らないと伝えました。
ところが、まあうちの両親はこういう性格なので、成人式は振袖を着るものだ!の一点張り。

そこで私は、じゃあこの着物レンタル代金を私にください、とお願いをし私はかねてから欲しかった車を購入しました。
そして成人式の着物は、母親の着物を着て出る事に。


就職先
我が家は根っからの公務員一家なので、とにかく安定第一
両親ともに、私を公務員にさせようと必死でした。
でも、中学生のころから海外での生活に憧れた私は旅行会社からの内定をゲット。

両親は猛反対をしましたが、ここ本当に押し切りました。
そして朝から晩まで働く私の姿を見て、「ほら大変でしょ?」というのですが、当の本人は毎日楽しくて楽しくて仕方がないのです。
自分の好きな事をする、ってこういう事なんですよね。


念願叶って旅行会社で働いていた私は、始めは仕事を楽しんでいたのですが、時と共に世間の華やかなOLに染まっていくのです・・・

当時の私は、バリバリ働くキャリアウーマンを目指していたのか、気取っていたのか(笑)休みのたびに海外旅行へ行ってはブランド品を買い集めていました。

今思えば、収入がある今、子どもの頃に手に入れられなかった、自分の欲しい物を自分で買うことができる喜びを満たしまくっていたんだと思います。

その頃の私は今思うと欲求不満だらけでした。
買い物しまくり
六本木に毎週のように遊びに出かけ
外人の彼氏を作りたくて仕方がなく
軽い女を一生懸命演じていたようなそんな感覚があります。


きっと「根がまじめな自分」が心の奥で嫌いだったんだと思います。


そんなある日、根がまじめな私は、会社で自分の気質に合わない、そして能力以上の仕事を任されてしまい、断ることができませんでした。
特に自己肯定感の低い私はそれを断ったら負けだと思ってしまったのでしょう。
心の奥底では私にはその仕事は向いていないと思っているのに、まさに鞭を打ちながら心を奮い立て、働き続けた結果、心が完全に折れてしまいました。


次第に休みの日は一歩も外に出たくなくなり、友人に会うのも億劫になり、食事はコンビニ弁当かインスタント食品ばかりを取るようになりました。


体と心は繋がっていますので、心が病み始めると体にも様々な影響が出てきます。
毎日頭痛に悩まされ、バファリンを手放せない生活になりました。頭痛だけではなく、頻繁にめまいがするので病院に何度も行き、MRIを取ったり、様々な精密検査をしても、異常なしの診断。


そして体全体にもアレルギー反応が出るようになり、顔や体は毎日が花粉症のように、くしゃみ、かゆみの症状が現れ、薬を飲めば眠くなるし、薬を飲まなければその不快感からイライラしてばかりいました。


そして最終的に私は自殺をすることばかり考えていました。
病院には行っていないので、診断は受けていませんが、今思えばうつ病だったんだと思います。


そんな中、私は周りの助言もあり、昔から好きだったバリ島(インドネシア)へ住んでみようと思うようになり、2010年にインドネシアへ移住することになりました。


インドネシアでの生活は私の概念を大きく壊してくれました。
「こうでなければならない」という概念をほとんど持っていない、とにかく自由なインドネシア人の中で、始めはイライラしながらも暮らしていくうちに、私の「こうでなければならない」をどんどん手放していくことができました。


そして少しずつ「本当の自分」を取り戻し、「こうなりたい」「こういう人生を送りたい」そんな夢や目標ができるようになりました。


私を大きく変えたのは瞑想とバリの自然でした。

特に2020年からのコロナで何もできなかった時、偶然にもバリにいた私は、毎日バリの自然と向き合い、朝日と共に起き、夕日と共に活動を終えるそんな暮らしを繰り返し、自然は偉大なる先生という理由が体感を通して感じる事が出来ました。


そこにあるヤシの木は頑張ってヤシの木になんてなろうとしていない。
隣にマンゴーの木があってもお互いにいがみ合うこともない。

雨が降れば家の中で過ごし
雨が上がれば外にお散歩に行く

我が家にいる3匹のワンコが優しく私に寄り添ってくれる

そんな生活を約1年半続けていたら、この世の事、自分の事、沢山の気付きを得て私は今まで学んできた瞑想をもっと世に広めたいそう思いました。

瞑想を知ることで、誰かの何かの気付きになったらいいなと思い瞑想講師をしています。


《長谷部幸代のできる事》
瞑想指導
シンギングボウルヒーリング
気功ヒーリング
インドネシア移住相談
バリ島旅行相談・手配
バリ島リトリートツアー企画・手配
海外旅行相談
インドネシア語レッスン
インドネシア語通訳・翻訳

《連絡先》
公式LINE @296lywld
Email: sachiyo8hasebe@gmail.com



こんな私に興味がありましたらホームページをご覧ください。



2022.12改稿

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さっちー / 瞑想マインドコーチ
一人でも多くの人が幸せ基準で生きれるように活動しています。頂きましたサポートはそんな人たちのサポート代に使用させて頂きます。

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