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人生は、意思とたまたまでできている

はたらくってなんだろう、と考えられるようになったのは、30歳を過ぎてからだった。

わたしが18歳のときに父親が病に倒れ、そこから4年間は介護をしながら入院費を稼ぐために働いた。父が亡くなってすぐ、23歳で子供を産んで、そこからはシングルマザーとして、生活費と子どもの学費のため、母の生活費のために働いた。

当時のわたしにとって、仕事は、困らないようにお金を稼ぐ手段でしかなかった。

介護中も子育て中も、自分の時間を仕事だけに費やすことができないので、限られた時間のなかで必要な金額をどうやって稼ぐかを考えて、実現させることが、常にやるべき優先順位の第一位だった。

「シングルマザーだからお金と時間がなくてもしかたがない」と諦めるのはいやだった。けれど、共稼ぎの夫婦と同じ生活をするには「半分の時間で2倍稼ぐ」を叶えないといけない。そんなことは到底無理だと何度もくじけそうになりながら、どうやったらできるかをひたすら考えた。

そして、32歳のとき、12年間働いた会社を辞め(お給料が足りなかったから)、自分でクッキー屋さんをはじめて、経営する側に回ることで時間とお金をつくった。お店を持ちたいと思ったことはないけれど、そのときの自分にできることはそれしかなかったし、とにかく困らない状態になるために、何をするかは重要ではなかったのだ。

19歳ではたらきはじめてから10年以上、わたしはいつも困っていて、ずっともがいていた。その水中にいるような苦しさから、どうにか陸に上がり、ようやく普通に息ができるようになったとき、はじめて周りを見渡して、みんなはどうやって生きてきたんだろう、はたらくってなんだろう、と考えることができたのだった。

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14歳のとき、高校進学の進路指導があった。そのときを境に「将来はどうしたいですか」と聞かれるたびに、「世の中にはどんな仕事があるのか、自分には何が向いているのか、知らないから決められない」と思っていた。けれど、どんなに待っても、大人になってもなお、誰かが教えてくれることはなかった。

そのまま、とにかく目の前のできることをやって、気がついたら30歳をすぎていた。自分の過去を振り返りながら「はたらくってなんだろう」と考えるとき、自分が仕事を選べないままここまできてしまったことに失望し、職業について誰も教えてくれなかったことに怒りを覚えた。「はたらくってなんだったんだよ、はたらく前に教えてくれよ」というのが正確な気持ちだ。

そして、友人知人に片っ端から「どうしてその仕事に就いたの?」と聞いて回った。

すると、子供の頃からその職業を目指して一目散に進んできた人はほぼいなくて(子供の頃はなかった仕事をしている人も多くいた)、ほとんどの人が「たまたまこういう本を読んでさ」「たまたま先生に褒められてさ」「たまたまバイト先の先輩に巻き込まれてさ」など、ひとことで言うと「たまたまだよ」と言うのだった。

わたしだけが選べなくて、他のみんなは何かを目指して、夢をもって進んできたのだと思い込んでいたので、「えっ、たまたまなの??」と、拍子抜けし、驚いた。

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みんなが「この仕事をしているのは、たまたま」と言うのに驚いたものの、考えてみれば、わたしも同じだった。

父が早くに亡くなったことも、シングルマザーになったことも、そうなりたくてなったのではなくたまたまだし、お菓子の業界で職人ではなく裏方の仕事をしたのも、たまたまわたしの持っている能力がそこで役に立ったからだった。あちこちで出会った人たちもすべて偶然だし、「どうしてその仕事をしているのか」と訊かれたら、わたしも「たまたまだ」と答える。

もちろんたまたまだけで進んできたわけはなく、ところどころで意思を持って選んだり、決めたり、諦めたり、飛び込んだりしてきた。

わたしも、自分の意思で「時間とお金をつくる」と優先順位を決め、会社を辞めて自分で仕事をつくると決め、その一方で、できないことやもっていないものは、諦めて手放してきた。

自分は仕事を選べる環境ではなかったけど、他の人は自由に選んで羨ましいなーと思い込み、自分の運の悪さに失望し、社会の仕組みに怒っていたけれど、決してそれだけではなかった。

100人いたら100通り、みんなそれぞれの「たまたま」と、それぞれの「意思」で、進んできたのだった。

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今、14歳のわたしに伝えられるとしたら、「待っていても、誰かがどの仕事をすればいいかを教えてくれることはないよ。どうせたまたまだから、怖がらないで、自分の好きないい匂いのする方へ進んで、よいたまたまに出会いに行くといいよ」と言ってあげたい。

仕事についての情報が足りなかったのも事実だけど、用意周到に情報を集めるよりも、なんとなくいい匂いがする方向をキャッチする嗅覚の方が、大事だと思う。楽しそうな場所に行ってみたり、おもしろそうな人に会ってみたり、話を聞いてみたりしながら、嗅覚を鍛え、たしかめるといい。

そして、自分では選べない環境や、よくない「たまたま」があったとしても、「運が悪いからしかたない」と、諦めないでほしい。

よくない「たまたま」から抜け出すために必要な「意思」は、「ここに行きたい」「こうしたい」と、自分がよろこぶこと、心が動くことから生まれる。諦めて考えるのをやめることで、何も感じないように嗅覚に蓋をして、心が動かないように抑えてしまうと、そこから先には進めなくなってしまうからだ。

心が動くことが意思を生み、意思がたまたまを呼び、たまたまが意思を呼ぶのだ。

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「意思」と「たまたま」は互いに呼び合い、循環しながら進んでいくのなら、どちらかを止めてはいけない。

「はたらくこと」「くらすこと」「生きること」は、ぜんぶ循環の中にあって、大小さまざまな渦や波の中にあるのだと思う。

今年、世界的な感染症の影響で、今までのように自由にどこかに出掛けたり、人に会ったり、おしゃべりすることが劇的に減ってしまった。その結果、ゆるやかな「たまたま」が起こりにくくなり、力技のように極端な「意思」だけで動かさないといけないことが増えた。明らかに、循環の渦が崩れたなと感じる。

わたしも、9年間続けてきたクッキー屋の店舗を閉めざるを得なくなり、この夏、お店を閉じた。

あれだけ困らないようにたくさん考え、自分を助けるためにつくった仕事を、こんな形で手放すとは思ってもいなかったし、自分がどうしたいかの心を無視して、意思だけで決めないといけないのは、とてもしんどかった。

そして、今また「はたらくってなんだろう」と考えている。

世界を揺るがすほど大きなイヤな「たまたま」が起こって、10年前の考えが通用しなくなり、のんきにぼんやり暮らすことができなくなってしまった。14歳の自分に向けて偉そうに言っている場合ではなく、この歳になってもまだまだ困ってばかりなのかと思うと、気が遠くなる。

けれど、若いころのわたしとは違って、40代になった今のわたしは、だいぶ図々しくなり、「どうにか楽しく生きてやる」というつよい意志を持っている。だから、きっと大丈夫だ。

1日もはやく日常が戻り、それぞれの意思とたまたまの循環を取り戻し、それぞれのリズムで暮らし、はたらき、生きることができますように。心から願っています。

2020年12月

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このnoteは、Panasonic×noteの「はたらくってなんだろう」コンテストの参考作品として、書かせていただきました。
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桜林 直子(サクちゃん)
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