日常に潜む科学に触れる
耳を澄ませていよう。地球の奥底で、大切な何かが静かに降り積もる音に――。
これが何を示しているかわかるだろうか?
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理系とーくでイベント
いわゆる「理系」と呼ばれる人たちが集まって、一つの小説について語り合う。
そんなイベントの司会をする機会を得た。
今、メンバーとして参画(っていうと何かカッコいいな笑)している、理系とーく内のイベントだ。
理系とーくはこちら↓↓
新潮社さんからのご好意で、ある書籍を献本いただいた。
「八月の銀の雪」
とても素敵なタイトルだな…と思ったら、これも自然現象の比喩的な表現だった。
表題作は特別に公開されているので、ぜひ読んでみてもらいたい。
この小説は5つの短編からなる。
いずれも悩みを抱える主人公が、科学の一端に触れることで少しずつ心が解放されていく物語だ。
人間ドラマを描く小説は読んだことは無かったが、この小説は何度も読み返したい。そう思えた。
なぜそう思えたのか?
たぶん、5つの短編の主人公いずれもが、本当に平凡で身近に存在していそうな人物ばかりで感情移入できたからだと思う。
そして、さらに主人公が科学に触れることで、少しだけ知識を広げ、世界の多様さを感じる。それにより、抱えている悩みから解放されていく。
一人の「理系」の人間として、医療機器の研究者として、科学の力で社会課題を解決することは、ある種の使命感のようなものを感じている。
しかし、この小説では、科学が何かの課題を解決するのではない。
科学を通じて、物の見方を提案する。たったそれだけで、5人の主人公の“心”を救うことができていた。
なぜ、科学が人の“心”を救うことができたのか?
さて、イベントでは理系とーくのメンバー3名がスピーカーとしてそれぞれ理系とーく内のブログで書評を投稿しており、その内容についてさらに自分の口から語ってもらった。
3名に共通して言えたことは、日ごろ感じる科学を伝えることの難しさについて、一つの解決策のようなものを見いだせた、といった感想だろうか?
私もよく陥るのだが、自身の研究テーマを説明するにあたり、正確に伝えようとしすぎて、結局相手が情報過多で飽きる、もしくは迷子になる。
理系に限らず、多くの人も経験しているのではないだろうか?
この小説において、主人公に科学の面白さを伝える人物は、専門的な内容を語らず、抽象的な概念を伝えていた。しかし、その内容は理系的にもニュアンスがずれていると感じない、本当に絶妙な表現が用いられていた。
科学も人の営みの一部
当たり前のことを忘れていた。
科学は特別なものではない。科学も人の営みの一部でしかない。
ならば、伝えることができるはず。
聞いてくれる人の立場になって、共通の認識を得られる言葉を用いながら興味を持ってもらう。
これができるようになりたい。(だから、プレゼンの神と呼ばれた澤円さんのオンラインサロンに入ってるんだ。)
科学の素敵な部分を伝えられるようになりたい。
おまけ
「八月の銀の雪」では、それぞれの章ごとにしっかりと出展(Reference)が掲載している。
どの章を読んでも、最後の出典で論文のような感覚で、理系ゴコロをくすぐったよねー(笑)
という参加者の全員一致の意見があったことは記しておきたいと思う。