振り返って
二十六年前、私が一兵卒として前線に行き、死と顔を突合わせて帰って来たということが、決定的なことだったらしいのである。安らかなる老後を求める気持ちは、私にはない。働き続け、苦しみ続けて死ぬつもりである。(「敗戦後論」加藤典洋 ちくま文庫 101頁)
上記は、大岡昇平(1909.3.6〜1988.12.25)が語った言葉として、「六十三、四の正月」の表題で1972年1月に何かの誌面に掲載されたものらしい。1972年との年に語られたことに思うところがあったので、幾らか結論の出そうにないことを記してみたい。沖縄の「本土復帰」や「日中国交正常化」があった年として、1972年は記憶されている。既にそれから半世紀経過したことになり、どの様なことが起きた年だったか、あれこれ調べ、その結果驚かされることが少なくなかった。
1970年11月25日、昭和天皇が1921(大正10)年の同日に摂政宮に就任したときから49年後、三島由紀夫の筆名を名乗った平岡公威は決起したようだ。大岡昇平はレイテ戦記を翌1971年に刊行し、1972年が明けたばかりに語られたのが上記の弁となる。1972年2月に入ると、サイパンから横井庄一(1915.3.31〜1997.9.22)が帰還し、2月19日から28日にかけて、あさま山荘事件が起き当時カラーテレビで中継されている。内閣は東京オリンピック開催後から、池田内閣の後を受けた佐藤栄作内閣が長期に政権をにない、4月に入ると川端康成が自殺している。そして5月15日の、犬養毅暗殺からちょうど40年後に、沖縄は日本に返還された。7月に入ると、7日に田中角栄内閣が組閣され7年8ヶ月程の佐藤内閣が終焉した。
1972年9月にはドイツのミュンヘンでオリンピックが開催され、パレスチナ武装組織によりイスラエルのアスリート11人が殺害され、9月29日に日中共同声明が出されている。第二次世界大戦後、ドイツで開かれた初のオリンピックであった。20世紀の戦争の影がちらほら伺えた時代であった様に見える。それから既に半世紀が経過したが、どれほど変わってきたのかわからない。大岡昇平の死後、「昭和」もまもなく終わった。1946年1月1日、明治憲法における天皇の神格の否定が詔勅として発布され、既に77年が経過した。日本国憲法の公布からも同じ歳月が経つことになるが、1947年5月3日に日本国憲法が施行されてから、24年後の2047年にはそれから1世紀が経過することになる。
生きていれば、わたしもその頃後期高齢者となっているが、重光葵とマッカーサーが東京湾の戦艦ミズーリの看板で降伏文書に調印し、敗戦国となってから、約14ヶ月後に日本国憲法は公布され、その「押し付け」か否かの分裂した状況は現在も緩やかに残っているかもしれない。個人的に意見を述べると、宮﨑駿が主張する次の見解、現行憲法は押し付けられた様なものではないとする見方に大きな異論はない。
現行憲法は15年間にわたる戦争とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ、決して『押し付け』でもない…Wikipediaより
しかし、GHQ押し付けられるようにして、吉田茂内閣の下で憲法の公布・施行がなされて、サンフランシスコ講和条約及び日米安保条約が締結された経過がなかった訳でもないと考える。故加藤典洋は、憲法の国民投票による選び直しの必要性を主張したが、安倍内閣の下で立法化された平和関連二法による自衛隊の集団的自衛権の行使を可能とする様な選択ではなく、同法律を一旦破棄して、日本国憲法の改訂による集団的自衛権を行使可能とする憲法改正を検討することは必要ではないかと思う。
1991年1月17日、その前年の8月に隣国クウェートに侵攻したイラクに多国籍軍が軍事攻撃した際に、自衛隊が多国籍軍に参加できなかった状態を可能とできる様に、国連の平和維持軍としての活動のみ、集団的自衛権を行使可能とする国連憲章との整合性を持った憲法9条の改正は丁寧に審議していく必要があると考える。憲法において集団的自衛権はこのような時のみ行使可能と限定する必要があると考えている。
ただし、それ以前に、日米地位協定の見直しは必要不可欠であるし、憲法9条の改訂同様に、象徴天皇制の廃止を視野に入れた憲法改訂による象徴天皇及び皇室の国民統合、皇室典範を継承する法律による天皇位の継承や歴史や文化として天皇を維持する方向性を慎重に検討することは21世紀に残された政治の重要課題であると考える。天皇機関説を唱えた美濃部達吉や三島由紀夫を名乗った平岡公威はきっとこの様な案に反対するだろう。大岡昇平、大江健三郎、加藤典洋が何と言うかは想像もつかない。それでも敗戦国となって1世紀を迎えるまで四半世紀を切った現在、「戦後昭和」に生まれた者として、憲法の下の主権者として、こうしたことは述べてゆく必要があると考えている。