ノーベル平和賞受賞の報道に触れて
2024年日本の被爆者団体協議会が受賞した報道に触れて、穿った見方をしておきたい。日本被団協の受賞は大江健三郎の文学賞受賞から丁度30年後のことになった。当時の平和賞はパレスチナのヤーセル・アラファト、イスラエルのシモン・ベレス、イツハァク・ラビンであった。
穿った見方をしておきたいのは、数年前に知ったある事実に驚いたことがあって、語られていないことについて語っておきたいと思った。それは堀川惠子の著作、「暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」(講談社)を読んだことがきっかけだった。1945年8月6日広島にエノラ・ゲイと名付けられたB-29戦略爆撃機に、テニアン島で積まれたウラン型のリトルボーイと呼ばれた原爆が投下された時、丸山眞男が徴兵され広島にいたという事実を知ったからだった。政治学者として知られる丸山眞男その人である。
1972年2月に横井庄一は日本に帰国し、当時話題になったようだが、ほぼ同じ時期にあさま山荘事件も起き、その後4月に川端康成が死去し、5月15日に沖縄が返還され、7月には自民党総裁選で田中角栄が総裁となって内閣が組閣され、9月に周恩来と田中角栄が握手を交わし、日中の国交回復が宣言された激動の年だった。ミュンヘンで行われたオリンピックではイスラエルのアスリートが殺害される事件も起きていた。
横井庄一(1915.3.31-1997.9.22)と丸山眞男(1914.3.22-1996.8.15)は、ほぼ同世代である。横井庄一は1938年5月に陸軍に入営後、中国戦線に送られ、1939年3月に軍務を解かれ、仕立て屋の仕事をしていたとWikipediaには紹介されている。その後、1941年8月に再度召集されて満州へ、1944年からグァムの歩兵連隊に軍曹として配属され、8月に戦死したとの広報も出されていたが、27年余り帝国陸軍兵士の生き残りとして孤軍奮闘していた。丸山眞男は、1944年7月陸軍二等兵として教育召集され、朝鮮半島の平壌に送られたが、9月には脚気のため除隊が決定し、11月に応召より帰還するが、翌年3月に再び召集され、広島市の船舶通信連隊で暗号教育を受け、その後宇品の陸軍船舶司令部に二等兵として配属され、英字ウィークリーからの国際情報を報告する任務にあたり、6月に一等兵に昇進した後、8月6日に被爆している。
丸山眞男の被爆体験については、故人が生前そのことについて積極的に語ることはなかったようで、余り知られていないようだ。ポツダム宣言が政府により受諾されると、9月に復員し、翌年2月14日からは東京帝国大学の憲法研究委員会の委員を務めることになり、ここでの丸山の発言が元となって、憲法学の8月革命説は誕生したと言われている。それは憲法における主権者の移譲が起きたとすると学説として理解して概ね誤りはないのではないかと思う。明治憲法における主権者の天皇から、日本国憲法における国民主権へと主権の移譲が起こったとする考え方と私は理解している。そして天皇は「主権者」から日本国及び国民統合の「象徴」へと変容した。マジックのように不思議な話なのだ。
逆に言えば、日本国憲法の交付及び施行は、敗戦国となった混迷した状況下の日本で、GHQ司令官マッカーサーのような米国人らが、戦後の日本統治にあたって、昭和天皇の戦争責任を追求して処刑する選択よりも、憲法においてその生存の保証を図り、矛盾を抱えた中で、新たな憲法の下で国家運営を図る上で、天皇の存在は欠かせないとの意向が働いていたことも、憶測の域を超えるものではないとしても、あったということが寧ろ適当なところではないだろうか。それを支える憲法学の根拠として、敗戦国に8月革命説と呼ばれるものが誕生してきた。
1945年7月16日のニューメキシコ州ロスアラモス研究所における最初の核爆発実験後、79年余りの歳月が過ぎたが、ロシア-ウクライナ戦争、パレスチナ-イスラエル戦争が止む見通しの立たない中で、日本の被爆者の団体にノーベル平和賞が授与されることになった。その活動が評価されたことを喜ぶことに異論はもちろんない。それと同様に、ヒロシマで被爆した経験のある丸山眞男の発言が元となった今日の憲法の学説にも、多少の思いを寄せて、日本国憲法の公布から1世紀を迎えようとする時期に入り、「天皇」の在り方やその存続についても、もっと多様な視点で検討がなされる必要があるのではないかと思う。
核廃絶の道のりは遠いのかもしれないとしても、日本政府が核兵器禁止条約を批准する日は、そう遠くに置かなくてもよいと思うが、象徴天皇の制約された人権の解消を図り、近代立憲主義の観点から身分制度の名残りとも言える「皇室」を将来的に廃止して、天皇及び皇族を憲法において国民に位置付ける可能性についても、仮に実現はしないとしても、選択肢の一つとして、立法府や憲法調査会で丁寧に審議検討されるべきことだろうと思う。国民に位置付けられた天皇がどの様に継承され、国事行為を担い続けることが適当なのか、象徴天皇が担った国事行為は、異なる方法で異なる社会的な立場の者が担うことにするのか、そうしたことを丁寧に検討することは、憲法の改正に向けては必要不可欠なのだと私は思う。
一見核廃絶の課題とは無縁のように思われるかもしれないが、国連憲章の採択は1945年6月にサンフランシスコでなされ、沖縄戦が終結した頃とそれは重なっている。国連憲章に定められた集団的自衛権の加盟国に認められる権利行使の可能性については、憲法に自衛隊を明記するというような方途ではなく、国連憲章との整合性の下で憲法9条を改訂し、日本の自衛隊が安保理決議に基づく集団的自衛権の行使として平和維持軍が編成される際に、憲法を根拠にして参加可能となるように改訂を慎重に検討することが必要なのだと思う。
同様に核廃絶の理念を松明に例えるなら、日本政府はその松明を掲げ続ける外交方針を根幹に据えてもよいのではないだろうか。核兵器禁止条約の批准についても、唯一の戦争被爆国として日本政府は検討をすべきことだろうし、日米安保体制から国連を中心とした安保体制へと、日本の外交・安全保障政策も舵を切りながら、国連の常任理事国として名乗る用意があることを国際社会にアピールしてゆくことが、日本国憲法における平和主義に適ったこの国の選択肢なのではないかと、私は思うのである。核保有国が1カ国も批准していない核兵器禁止条約を、保有しない戦争被爆国として、橋渡しするにはその批准は必要なのではないだろうか…。
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