何故ぼくらは健康であらねばならないのか
5日ぶりにジムへ行った。
先週は4回も行ったので、ちょっと疲れ気味だったのだ。
と、調べてみたら3回しか行ってなかった。
記憶もでたらめだな。
とにかく今日は調子が悪くはなかった、ということだ。
1時間ほどマシンで筋トレをして、温泉に浸かった。快。
健康や運動に関する本もたまに読む。
きっかけは20代後半、それまででたらめな生活を続けていたツケが最初に回ってきた頃。
首や肩は痛いし、たまに腰痛にもなった。風邪を引きやすく、引くと気管支炎になった。
こどもの頃からのアレルギー鼻炎は悪化し、これは自分だけが知っている地獄だと思っていた。
(後に花粉症というものが流行り、多くの人が同じような苦しみを分かち合ってくれるようになったと、不謹慎だが嬉しくなった。)
あるとき、小さな書店で、足裏健康法の本を見つけた。以来しばらく毎日棒を持って足の裏を揉んでいた。
さらに、体は食べ物で出来ている。ちゃんとしたものを食べないと病気になる。というようなことを書いた本を読み、野菜中心の玄米食にした。やれ白いものはダメだ、とか、化学調味料がどうの、陽の食べ物は体を温め、陰は冷やす、だからコーヒーはどう、梅干しはどう、アルカリ食だ酸性食だ、とか、ビタミンはどうだ、とか、自律神経がどうのこうのと、さんざん気にして暮らしていた。
幸運にも苦しんだ気管支喘息は出なくなり、アレルギー鼻炎もめったに出なくなるほどに良くなった。
首の痛みもそうひどくはなくなった。
ああ、やっぱり代替医療は効果あるんだなあ、と、思ったものだが、喉元過ぎればなんとかで、いつしかまた普通の食事に戻り、ときどき調子も悪くなる。
まあ健康も不摂生もほどほどで行こうと決めた。
あれだめ、これだめと自分にうるさいのは魂によくない。
以来、それでも健康や運動関連の本はたまに読む。
いろいろ試しては見るが、効果てきめんというのは、以前のときほどのものはない。
あれはやはりかなり徹底して生活を改善したのがよかったのだろう。そしてほんとうにすがるようにいろいろ試したのだった。あとから分かったが、後に死刑囚となったオウム真理教の医者が書いた本も熱心に読んだものだ。その頃近所に道場があったので、下手したら訪ねていたかもしれないと思うと寒気がするが。
で、今でもいちばんくりかえし手にとるのはジム・レーヤー著の「メンタル・タフネス」かな。
内容は要するに前にもnoteに書いたが、バランスが全てだ、と言い換える事もできるのだが、ストレスと回復を適度にくりかえすことで、タフネスは手に入る、ということだ。
ストレスというのは今ではすっかり悪者の代表のようだが、実際は適度なストレスがないと、体というのは弱っていく。ストレスと回復をバランスよくくりかえすと、体も心もタフになるというのだ。作者は米国のテニスの指導者として長年、選手のパフォーマンスについて臨床研究してきた。そして発見した最も重要なことは、「素早く回復する」ということだ。回復というと、凡人にはただだらだらごろごろして休む、というぐらいしか思いつかないが、スポーツを科学的に研究すると、ちゃんと方法あるということなのだ。この本は1995年に日本でも出版されたが、その年はオウムサリン事件の年で、まだまだ人間についてのことが、科学と宗教とまじないと伝統と迷信とおばあちゃんの知恵袋などが、ごっちゃになったままの時代だった。今でこそオリンピックなどの報道を見ると、スポーツをするにも人体を科学でコントロールすることに時間と予算を惜しみなく投資し、その結果物質的な面と同じくらい精神面、人間関係や、言葉遣い、信念、モチベーションなどの重要度が確かなものとなっているように思う。
30年前はもっと未熟で野蛮だった。だからこそ、そんなことでいいのかな?と疑問を持って、あれこれ試行錯誤しながら確実なことを言語化する人が新しいやり方を提案し成果をあげるようになり、今のように時代が変化、進歩、成熟してきたのだ。
昔にくらべたら、他人の体を思いやる風潮はよくなったと思う。
だがもう僕も還暦近い。思い切りスポーツをやるにはちょっと厳しくなってしまった。
だが、昔のようにあほみたいに体を酷使してこそかっこいい、というような価値観が廃れたのはいいことだ。
若い人には賢く、楽しく、できれば健康的にスポーツを楽しんで欲しい。
今の時代、あなたもわたしも、なんのために健康であらねばならぬのか。
ジムに付属の温泉に浸かりながらゆっくり考えてみるのも、たまにはいい。