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【要約】浅田彰『構造と力』「序にかえて」

以下は、浅田彰『構造と力』(1983)の「序にかえて」を要約したものである。この「序にかえて」は、同書に通徹する態度「シラケつつノリ、ノリつつシラける」が登場する部分で、様々な言い換えを以て、その態度を表現している。実に華麗なので、一度は原文を参照していただけたらと思う。今回は、そこに一つ一つ踏み入ることはせずに、論理の流れをコンパクトにまとめてみた。読む際の参考になればと思う。では。

「序にかえて」要約

哲学的思索や自然の真理の探究といった学問も、官僚や医師を目指すための法学・医学も、どちらも君たちには興味が湧かないのではないだろうか。前者は結局虚学だろうし、後者は、目指している先が空虚な世界ではないか、と思っているだろう。そんな「シラケ」の世代である君たちの感性をぼくは信じている。

その上で言うのだが、安全圏から高みの見物をするような「評論家」にはなってはいけない。むしろ危険を冒して、対象に全面没入し、その後、自己相対化して批判する。この同化と異化の鋭い緊張関係こそ、真の知に値するのだ。例えば、結局すべて「ドクサ(色眼鏡)」でしかないと言うのではなく、それを「パラダイム(知の様式)」として見て、その「パラダイム」では何が見えるのか、と深くかかわってはじめて、真にクリティカルなことが出来るのである。

これは近代社会を生き抜くことにも通じる。近代以前の未開社会では、人間特有のカオスを、安定した象徴秩序によってコントロールしていた。しかし近代社会は、そのカオスをある一方向に運動させることで成立させている社会なのである。そのダイナミクスは、教育機関(整流器)、経営工学(加速器)、経済思想(安全装置)によって形を保てているのだ。それに対する批判としての、自然の根源的本質に回帰しようとする自然主義的批判戦略は、本質がカオスであることを知った以上無意味である。また、象徴秩序はいくつもあることを指摘するだけの相対主義的批判戦略も、それをも飲み込む近代社会の前では無効である。つまり、私たちに残されているのは、この近代社会の内部で、局所的な批判運動を続けるという困難な戦略のみである。それをし続け、近代社会の大きな濁流に微妙な偏曲を生じさせるのである。

さて、今、大学に入ろうとしている諸君よ。着実な基礎学を積み重ねていくヒエラルキー的な学習が目の前に立ちはだかると思うが、その地下で、あらゆる方向の知と戯れ、知のジャングルを作り、パラドクサ的運動(知をズラしていく運動)をしていこう。

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