【読書記録】奥村隆『他者といる技法』、序章「問いを始める地点への問い——ふたつの社会学」を読む
全体要約(Abstract風)
同序章は、同書で扱う対象と、その論じ方が書かれている。対象は、題名にもある「他者といる技法」であり、身近な他者について、その他者性(異質性)が現れないようにする、つまり互いが互いを自身の存在証明を脅かすような存在にしないようにする技法を扱う。そうした技法は、常に他者と平穏にいられるという「すばらしさ」と、異質性を抑え込んでいるがゆえの「苦しさ」、そのふたつを持っており、その両面を描き出すのが同書である。
ただ、このときの論じ方は、よくある論じ方、社会の「悪」を指摘し、そうした「悪」を含まない新たな社会を提示するような社会学の態度と一線を画す。著者には、同書を書くにあたって明確な意図、つまり先の技法を通じて適切に恩恵=「すばらしさ」を得ることができている存在、いわゆるマジョリティに向けて論じたいという意図がある。このときの「向けて論じる」とは、その人たちの心に届くこと、心に刺さるようにするということだ。だが、よくある社会の論じ方は、社会を変えようとする「改革者」や、社会に抑圧されている「(社会的)弱者」によって、またはそうした者たちに向けて書かれている。生きている中で「社会」に大きな違和感を感じるなか、まさに「違和」を感じている=その「社会」の外側にいる立場から、「社会」の「悪」を糾弾する、そんなスタイルである。ただこうした論じ方は、その性質からして、社会の中で、そうした「悪」と不可分な利益と共にいるマジョリティにも有効なのだろうか。これが著者の問題意識だと言えよう。
そこで新たに「問いを始める地点」として、「私」抜きの社会を問うのではなく、「私」そのものを問う立場を設定する。マジョリティは、「社会」の外にいるのではなく、「社会」の中にいる。それも自分がいる場所を「社会」と名指すような外の視点を持たない存在である。よって、始まるのはつねに「私」からでしかない。「私」を突き動かしている、よくわからない「力」の線(それが「社会」)、それを丁寧に描き出すことが、マジョリティに届く社会学だと言えよう。ただこのように舵を切ったからといって「悪」を肯定しようというわけではない。「悪」に対する判断を留保してはいるが、むしろこのように留保することによって、マジョリティにことばが届くことが可能になり、そして彼らを「悪」に向き合わせることができるのだ。「悪」に対する性急な排除の姿勢は、こうした可能性を消してしまう。そうした姿勢によって社会は確かに変わってもいるが、その後も社会を良くしていくには、「私がいまなにをしているのか」をどこまでも丁寧に描き出すこと、そうした社会学が必要になることだろう。
全体要約(書評風)
同序章では、同書で大きく何を対象とするのか、そしてそれをどのような仕方で論じるのかが書かれている。
まず対象であるが、対象とするのは、同書の題名にもなっている「他者といる技法」である。ここでの「他者」とは、自分とは異なる人間のこと全員を指している。また、われわれは生きていれば、何かしら他者と生きていることだろう。そのとき日常的に他者とうまくいるためにやっていることがあるわけだが、それを「技法」と名付けて紹介しようというのだ。
もう少し踏み込んでみよう。そうした他者とは、何かしらの「技法」を使って日常的にうまくやれているわけだが、そうした「技法」がなければ、他者とは、他者の「自分とは異なる」という異質性が露呈したかたちで接することになるだろう。このことを踏まえれば「他者といる技法」とは、つねに不気味な存在に転じうる他者に対して、他者がわけのわからない不気味な存在として現れないようにするための技法だと言える。よって技法があってはじめて、平穏に他者といられるわけである。ただ、そうした技法は、その性質からして、つまり強引に「他者と安全にいられるように」しているため、どこかしら無理が生じている。この無理は、ある種の「苦しみ」として現れる。このように「他者といる技法」はその性質からして、正負、両方の側面があるのだ。そして同書の試みは、それら技法には、具体的にどのような「すばらしさ」と「苦しみ」があるのか、これを明らかにすることにある。
次に、それをどのような仕方で論じるかだが、この点はかなり込みいっている。まず著者はある明確な意図を持っている。それは、先の技法を通じて適切に恩恵を得ることができている存在、いわゆるマジョリティに向けて論じたいということだ。「向けて論じる」とは、その人たちの心に届くこと、心に刺さるようにするということだ。
ただなぜこうした意図を明確に示す必要があるのかというと、これまで何かしら社会での出来事が論じられる際、そうした「社会」に関心を持ち、問うきっかけをもつような層、つまり「社会」に大きな違和感を感じるような「改革者」や「(社会的)弱者」による論じ方が支配的だったからである。こうした社会学を仮に「マイノリティによる(のための)社会学」だとすると、そうした社会学は、探究者自身が「社会」に馴染んでいないため、対象とする「社会」は、「私(「改革者」や「弱者」)の外」にあるものとして問われていく。そして、その「社会」がいかに病理を抱えているか、ある存在を抑圧しているかを指摘し、そうした「悪」を含まない新たな社会を構想する。このように、社会の「悪」を排除し、新たな「理想」を掲げることがその社会学の目的となる。
ただそうした社会の論じ方は、その社会の中にいて、そこで何かしらの利益を得ている存在=マジョリティのこころに届くだろうか。社会の中にいる彼ら=私たちが得ている利益は、指摘されている病理や「悪」と不可分であり、利益を共にしているマジョリティも、その「悪」とは無関係ではない。そのため「悪」を排除することは、その「悪」と不可分である利益、それを共にする「私」を排除することに他ならない。というよりも「悪」を名指せるような位置に、原理上、この者たちは立ちえないため、問いかけそのものがピンとこないとも言えよう。では、そうした者たち=マジョリティに有効な社会学、社会の論じ方はあるのだろうか。これが著者の考えたいことである。
このとき重要なのは「私」抜きの社会を問うのではなく、「私」そのものを問う立場から始めることである。マジョリティは、社会の外にいるのではなく、社会の中にいる。それも自分がいる場所を「社会」と名指すような「外」の視点は持たない存在である。ではどこから始めるのか。それは「私」からである。「私」を突き動かしている、よくわからない「力」の線(=「社会」)、それを丁寧に描き出すこと、それが「マジョリティに届くような社会学」だと言えよう。
ただこれに対して「描き出してどうなるというのか、それで社会の「悪」はなくなり、「理想」の社会になるというのか!」と言われそうである。つまり、その社会学は何をもたらすものなのかが気になるところだ。この点に対して著者は、何かの目的を明示するわけではなく、ただ「私がいまなにをしているのか、をどこまでも丁寧に描き出すこと、これである。」という。実は、これには明確な意図がある。この意図は、特に「悪」や「理想」を語るときにそれは見られる。「悪」をはじめから否定的に捉える態度や、その「悪」を消去した「理想」などを一挙に描こうとした態度は、「悪」と不可分であるマジョリティに響くことはない。そのため、はじめからそうした態度に帰着すること、その態度に結びついた目的を掲げることは避けなければならない。ここでできるのは、そうした判断を留保して、じっくりと「私がいまなにをしているのか」を描くことだけである、ということだ。
というより、むしろそこからしか始まらないのではないだろうか。その立場から出発することがマジョリティに向けて書くことであり、それによって社会の圧倒的多数であるマジョリティが「社会」の「悪」と向き合いこと、そして、それをできるだけなくすにはどうしたらいいのか、という思索が可能になるように思える。
以上をまとめると、日常の中で何気なく使われている「他者といる技法」、その技法がもつ「すばらしさ」と「苦しさ」、その両方を描き出すのが同書であるわけだが、その論じ方は、その技法の「苦しさ」と共に「すばらしさ」も適切に享受しているマジョリティに向けて論じられている。その際「すばらしさ」、「苦しみ」のどちらか一方に着地することなく、マジョリティが自ら使っている技法に向き合うとき、自身とその技法との間に距離ができ、それとの適切な付き合い方、また他者といる別の可能性が見えてくるのだろう。
序章 問いを始める地点への問い
1 他者といることへの問い
・「他者といる場所、そこにはある「技法」がつねに存在する。おそらくその技法を、ほとんどの人がすでに身につけていていつもやっている。でも普段それに気づくことはあまりない。その技法「他者といる技法」を、この本はできるかぎり透明に描こうというわけだ。」(p. 11)
→「他者」、それは「自分とは異なる人間」のことで、その他者と空間的に隣り合っている場所、それが「他者といる場所」である。とは言ったものの、これは別に特別な場所ではなく、よくある日常的な場所である。職場、学校、家、電車の中、などなど、私たちは自室に閉じこもること以外は、つねに「他者といる場所」で生きている。このときわれわれは、何かしらの「技法」を使っているというのだ。
・「表情を浮かべるという技法」
→ここで、一つ具体例が出されているのが「表情をうかべる」という技法である。
「表情を浮かべる」、それは例えば微笑んだり、頷いたり、などなどである。ただ「表情をうかべる」と何が良いのか、ということはあまり語られておらず、「表情が消え去ったときのこと」を想像てしみよう、と話が展開される。
→隣にいる人の表情が消え去ったとき、どうだろうか。これは別の言い方をすれば、相手からの反応が一切ないということである。そのとき、われわれは「(相手が自分の話を)聞いているのかと不安になり、失礼だなと不快になったりする」だろう。いうなれば、このとき他者は、安心できない不気味なものとして自分の目の前に現れているのである。
→ここで、著者はいう「しかしながら、私はこう考える。他者といるということは、そもそもそのようなあやふやなものではないだろうか。あるいは、他者とは、そもそもそのような危険で不気味なものではないだろうか。」と。つまり、ベースとして、他者とは、何を考えているかわからないような、まさに他者が意味するところの「自分とは異なるような人間」というわけだ。このように、つねに不気味な存在に転じうる他者に対して、われわれは「相手がわけのわからない不気味な存在として現れないように」しているわけである。そのときの技法のひとつが「表情を浮かべる」という技法なわけだ(ただそれだけでは、不気味さをある一定程度にしか減らさないと思うが)。
・「こころと一致しない表情を作ることができることによって、私たちはたくさんの人とたくさんの場面で平穏にいっしょにいることができる。」
・「こうした表情を作らなければならないことは、ときに私たちにある無理を強い、「嘘」についての自責の気持ちを呼び起こして、私たち自身を苦しめる。」
→もう少しこの技法に留まって見ようと思うが、この技法の特徴は、浮かべる表情は別に「こころ」と一致するようなものでなくていいことである。人は内心、相手にムカついてても、笑みを浮かべることができるし、少し笑いそうになっても、平然と真剣な顔をすることもできる。というより、だからこそ、互いの「こころ」がどうであるかに関わらず、いつでも他人と平穏にいられるわけである。「愛想笑い」をして場をやり過ごすことは、まさにこのための事例といえよう。この面で「表情を浮かべる」という技法は「すばらしい」(なお私はあまり、この「すばらしい」という表現がしっくりとこない)
→ただ、どうだろう。何か「こころ」からの表情や、または、その表情をすることは致し方ないと割り切れるときはいいだろうが、したくもないのに、ある表情を迫られたとき、または「こころ」と異なる表情をするときに後ろめたさを感じる時、私たちは「苦しみ」を感じるのではないだろうか。もうひとつ、相手はこのように表情を浮かべたが、本当の「こころ」はどうなのかと疑念を抱いてしまうときも、苦しむことだろう。こうした面があるという点で、「表情を浮かべる」という技法は、「すばらしい」だけではないだろう。つまり負の側面があるということだ。今回は、「表情を浮かべる」という技法を紹介したが、他の「他者といる技法」にも、素晴らしさと苦しみの両面がある。
・「私がここで行いたいことはこういうことだ。私たちがもっている「他者といる技法」を、それがもたらすすばらしさとそれがもたらす苦しみとを、ともにできるだけくまなく描くことだ。すばらしさだけを描くことも苦しみだけを描くこともせず、できるだけ公平に描くこと。これが、さいしょに述べた「できるかぎり透明に描く」ということだ。」
・「すばらしさにも苦しみにもすぐには着地しないで、できるだけ長いあいだ宙づりの状態で、ある技法のすばらしさと苦しみの両方を描くことをしてみたい。」
→ここで、著者が試みたいことが分かっただろう。確認であるが、著者が対象にしたいのは、われわれが日常的にしている「他者といる技法」、言い換えれば、つねに不気味な存在に転じうる他者に対して、それを「わけのわからない不気味な存在として現れないように」するための技法である。そして、その技法は、常に「すばらしさ」と「苦しみ」の両面をもっている。そしてどちらか一方だけでなく、その両面をもったものといて「他者といる技法」を描くこと、それが著者がこころみたいことである。
→このとき、著者は「できるだけ透明に」と「透明」という言葉を使う。私はここに少しばかり疑問をもつ。著者の文脈として、この「透明」とは、片面だけではなく両面を描くことである。ただ「透明」とここで使うと、何か「観察者の色眼鏡、もしくは臆見みたいのをなくして」という意味になるのではないだろうか。確かに片面だけ見ようとする観察者の意向を入れずに、しっかりと対象それ自体としての両面をしっかり併記しますよという意味で「透明」と受け取ることができるだろう。ただここに観察者の意向がないとするのは、あまり得策ではないように思える。私は、むしろ同書には肯定的な意味で、観察者=著者の意向が存分に含んでいると考える。同書を読めばわかるが、明らかに同書はある意図を持って書かれている。それは後にも話題として出るが「ある技法に対する評価として、すばらしさにも、苦しみにも着地させないこと」である。何か肯定的な、または否定的な評価を下す前の、この宙づりにまず留ませること、自らが使っている技法とじっくり向き合わせることという猛烈な意図がある。「透明」という言葉によって、同書には「著者の意図はない」と読んでしまうのは、むしろ勿体無いように思える。むしろ、この著者の意図を積極的に汲み取り、評価するという話にもっていきたい。(私は、この著者の意図(目的、もしくは予期している効能)を「マジョリティが日頃使っている技法と距離を取らせる」ことだと考えている。)
2 ふたつの社会学
・「このようなことを、私は「社会学」という方法を用いて行おうと思う。」
→先ほど、問題とする対象「他者といるための技法」について話があった。今度は、その対象を扱うさいの方法である。著者はそれに「社会学」という方法をとった。では、著者は「社会学」で一体何を意味させようとしているのだろうか。
→著者はまずこれまで主流であった社会学のあり方を提示する。それは、社会を問うきっかけになる「今の社会に対する違和」、それを持つ者たちによる社会学である。つまり、社会をよくしようとする「改革者」や、社会に抑圧されている「(社会的)弱者」による社会学である。これは、今の社会の病理を指摘するために対象化された「社会」、または自分には馴染まない「社会」を論じるもので、彼らはつねに「社会」の外部にいて、そこから「社会」を論じる。こうした社会学は、これまでも成果をあげてきたし、社会に解決すべき課題がある限り、成果をあげ続けるだろう、と著者はいう。
→ただ、こうした社会学は、その出発点からして「社会に対する違和」から始まっており、むしろその「違和」があって初めて可能になっている。ゆえに、この社会学による成果、もしくは言説の有効範囲は「違和」を共有しているものたちに限定されているのではないだろうか。これが同書の問題意識なのだろう。そこで、「改革者」でも「弱者」でもない立場にいる人々に有効な「社会学」を立ち上げようとするのが同書の特徴であり、核となるポイントだ。つまり、これまでとは別の社会学、「ふたつめの社会学」を立ち上げようというのだ。
→先ほどの「「改革者」でも「弱者」でもない立場にいる人々」とは、雑に言ってしまえば、マジョリティである。いわば、現状の社会に特に不満を感じることなく、また疎外されているような感覚もない人たちのことである。彼らは、「改革者」や「弱者」と異なり、日常に違和を感じておらず、むしろ「改革者」や「弱者」が問題視する「社会」に、ある種の居心地のよさや利益を得ている存在である。そのような立場にいる者たちに、「社会」の病理を指摘してもピンとこないのではないだろうか。もしくは「社会」に何かしらの問題があると理解していても、自分たちがその社会から利益を得ているという状況を棚に上げて、「弱者」の立場をとる、というような不誠実なことはできはしない、となるのではないだろうか。ここに、マイノリティとマジョリティの隔たりがあるだろう。では、そうした者たちに言葉が届くような社会学は、どのような出発点を持てばいいのか。
→これを読んで、著者がマジョリティの利益を守ろうとする保守であるように感じられるかもしれないが、むしろ、著者の企みはかなりラディカルである。つまり、着実で実直な仕方で社会を変えようとしていると読めそうである。「社会に恩恵をももらいつつも、少し違和感がある」、そういったマジョリティの層に言葉が届くような、刺さるような言葉、それが可能は出発点は何なのかを徹底して考えているように思うのだ。これはひとつ、「ことばの有効性」への問い、と言ってもいいだろう。ここに、著者が出発点を問う動機がある。
・「「社会」を問うとき、問われる対象としての「社会」に、「私」は入っているのだろうか?」
・「私は、そうした「社会」のいくつもの力の線によって貫かれていながら、その力の線はふだん極めて見えにくく、それゆえその力に私たちは振り回されることがある。私がいう「社会学」は、そうした力の線を少しずつなぞって見えるようにして私のなりたちを明確にし、私のなりたちを描くことを通してそうした私を貫く力の線そのもの=「社会」を描く、という作業の全体である。」
→ひとつめの社会学では、問う者の外に「社会」があった。つまり「私の外」にある社会を問題視していた。このとき、問う者はある社会のシステムから弾き出された存在であり、言ってしまえば、そうした社会の問題点を指摘することに何ら躊躇いもなく、むしろ積極的に社会の病理を指摘し、自らも含むような社会を創造したいわけである。その立脚点には、そうした思惑がくっついている。一方、ふたつめの社会学では、そうはいかない。まず先で指摘しているような「社会」の内側に、「社会」の恩恵を得ている人たちはいるのである。ここでは「社会」という言葉を使っているが、彼らに「社会」を持ち出したとしても、社会の内側にいるために「社会って言われても笑」と言われるのがオチである(よく言われる)。考えるに、その存在が当たり前すぎて、わざわざ「対象化」する動機も機会もないのだろう。そうしたものたちに「社会」をいきなり持ち出すことはできないように思える。(というより「社会」から始められるのは、「違和」を持った特殊な者たちだけであろう。)
→そこで著者が提示するのは、「「私」抜きの社会を問うのではなく、「私」そのものを問う立場」から始めることである。「私」を突き動かしている、よくわからない「力」の線(=「社会」)、それを丁寧に描き出すこと、それが「マジョリティに届くような社会学」なのである。
→ここで私が気をつけないといけないと思うことは、著者が新しく提示する社会学は、一方で、「改革者」や「弱者」などのマイノリティには有効ではないことだ。それは、まさに、その出発点の違いゆえであり、「社会」の外にいるものたちには、社会の内部で共有されている流れは、自分たちに流れているはずもなく、それを指摘されても、実感がないわけである。それは、マジョリティが「社会の外にいる」という実感を持てないのと同様である。
3 透明に描くこと
・「他者といる技法を「できるだけ透明に描く」ということを述べた。(中略)(たが、)そのようなことをしてなんになるのか。」
→この【3】では、著者が提示するオルタナティブな社会学の「目的」が話される。つまり「この社会学の知見によって、何が生まれるのか」「結果としてどうなることを目指しているのか」が書かれている。特にひとつめの社会学(「改革者」と「弱者」による、のための社会学)が、社会の「悪」を指摘し、それを含まない「理想」の社会を構想するのと比較して、新たな「社会学」の目的は、「悪」の根絶、「理想」の追求ではない、とする。では、どういう目的があるというのか。
・まず「悪」から。
・「私は、この苦しみや「悪」というものに対するとき、ふたつの態度の取り方があるように思う。ひとつは、「悪」を根こそぎ消し去って、「悪」を解消した社会を構想しようとする立場。もうひとつは、社会のなかに「悪」が存在することを前提としたうえで、その害を少なくすることを考えるという立場である。」
・「前者は、「悪」を根こそぎにするためにより大きな「悪」を生み出してしまったり、(中略)また、「悪」を一挙になくすという目標を立てることによって、いつまでたっても存在しつづける「悪」のまえに無力感に陥り結局何も変わらないのだとする態度を、(中略)かえって生み出してきたようにも思われる。」
・「これに対し、後者は、たやすく「悪」を消去できるとする楽観主義やそのまま「悪」を受け入れる悲観主義のいずれにも着地しないで、それが現に存在する社会のなかで人を生きやすくしていくことを考えるための方法であったようにも思われる。「悪」は存在する、ではどうするか、という問いが、ここから初めて開かれる。」
→著者は、先ほどの「社会」の中にある苦しみを「悪」と言い換えているわけだが、そうした「悪」に対する態度をふたつ提示している。ひとつは「悪」を指摘し、その「悪」を取り除き、「悪」のない社会を構想する態度である。もうひとつは、社会の中に「悪」があること、そのことを理解しつつ、その害を減らしていこうとする態度である。
→ひとつめの態度がどのような態度を引き起こすかが次に書かれている。これらを別の言葉で言い換えれば、今ある「悪」をなくすために提示した代替案に、またほかの「悪」、またはより大きな「悪」が含んでしまうこと、または「悪」を無くそうとするがあまり、その現実不可能性に打ちひしがれてしまったり、また「悪」から足を洗え!再生産するな!再生産するものは許さない!と潔癖主義に走ってしまい、周りがそれには乗れないとして、バックラッシュが起きてしまうことが挙げられている。まさに現代の状況だと言えよう。ただこの態度にも一定の成果がある。
「悪」に気づき、「悪」を無くそうとする気持ちを芽生えさせ、それに突き動かされることにより、現に「悪」は減ってきていることだろう。
→ふたつめの態度はどうだろうか。著者がこの態度を取るために、かなり好意的に書かれているが、「悪」に対して二者択一のような判断を下さずに、今ある社会、それも込みで動いている社会の中で、どうしたら人は生きやすくなるのか、を考えることになるとする。ポイントとなるのは、「悪」に対する安易な判断を留保することである。この全体として「まずは留まる」ということに著者の意向があるように思える。この「留まる」ことによって、「悪」が自分の中でどのようなことと絡まりあっているのかを知ることができる。これが可能になるのは、ふたつめの態度でであろう。
・「私の「外なる社会」に存在する「悪」を描く態度は、「悪」を切り捨てる、という態度と近接する。なぜなら、その「悪」を生む「社会」は「私」の外にあって「私」はそれとかかわりないか、私はその「悪」の被害者でしかないのだから。この立場は「社会」を私からあちら側へと突き放し、そこにある「悪」を描き、それを消去することを考える。」
・「それに対し、後者の立場は、「弱者」でも「改革者」でもない立場からの「社会学」に近接する。そうした違和や「悪」を私自身が生み出したりもったりしているという地点から出発するとき、それを一挙に切り捨てることは、ーーそれは「私」を切り捨てることと等しいーーできず、そうした「悪」をはらんだ「社会」、そのなかいいる「私」とひとつひとつつきあっていく、という作業しかなしえない。」
→先ほどのふたつの態度は、【2】でのふたつの社会学とそれぞれ対応する、としている。ひとつめの社会学(「改革者」と「弱者」による、のための社会学)は、その社会学の性質からして、自らのほうに「悪」はない、「悪」は外にあり、「悪」は彼らに振り翳されているわけである。よって、その構図からして「悪」を維持する動機もなく、というより「悪」がないことを望むため、先の最初の態度とつながるのである。
→一方、著者が提示する新たな社会学は、そうはいかない。「悪」は自分の外にあるわけではなく、強くいうなら、自分自身である。そうした「悪」を切り捨てることは、自分を切り捨てることと同じことである。一回自分をリセットすることができ、新たな自分に生まれ変われたらどんだけ楽かと思うだろう。ただ現実はそうはいかない。その「悪」に片足を突っ込みながら、社会から恩恵をもらっている自分から出発し、まずはこの事態に向き合う必要がある。そうした方向をもった社会学は、2番目の態度と繋がる。
→ひとつ気をつけないといけないことは、ここの対立軸は、「悪」に対する「排除/肯定」ではない。ここで整理したいのは、①「悪」の排除、②「悪」の肯定、③「悪」に対する留保、の3つの立場である。③が著者の取りたい立場である。①と②は、まさに「排除/肯定」の軸にハマるわけだが、③はこの軸にはいない。③を位置付けるのに必要なのは「安直な判断/留保」という対立軸である。このとき①と②が前者に、そして③が後者にあたる。これは、先ほど引用した「たやすく「悪」を消去できるとする楽観主義やそのまま「悪」を受け入れる悲観主義のいずれにも着地しない」ことが、まさにこの対立軸を物語っている。ただ、ここでもどかしいのは、③が判断を留保しているために「どっちもどっち」という安易な相対主義の気配を常に付き纏ってしまうことである。これは③がもつ負の側面だと言えよう。ただ著者は、「どっちもどっち」と言いたいのではないことは確かだ。この点、著者はどのように考えているのだろうか。
・「「社会」の「悪」を指摘する成果が「改革者」や「弱者」の立場から始まる「社会学」によって積み重なり、それを受けて「社会」がその「悪」を減らす方向に少しづつ変化する。その結果、かつてなら「弱者」の立場にいただろう人々が、苦しみだけではなくすばらしさも「社会」から得るようになる。このような人々は、もう「悪」を突き放して向こう側にあるものとして攻撃することはできない立場にいることになる。(中略)その結果、新しく別の有効な問いを立てる必要が生じることも間違いない。」
→同書の中で、私が特に興味深く思ったのはこの点である。例えば、20世紀後半に、ひとつめの社会学(特にフェミニズム)はその成果をあげて、女性蔑視という社会の「悪」を減らす方向へと向かわせたことだろう。その結果、完全にではないだろうが、女性の地位向上というのは少しずつ行われているように思える。つまり、彼女らは「社会のなかに」入ったように思われるわけだ。しかし「社会」というのは、常に「悪」とともにある。その性格上「悪」とは切ってはきれない関係なのである。以前は「社会のそと」として、社会と切り離されていた者が、今は「社会のなか」にいる。けれど、そこにも「悪」は残っている。そうした者は、この「悪」とどのように付き合えばいいのだろうか。このとき、前と同じように「悪」を排除するような問いは、その者たちに取って可能になるのだろうか。もう「社会のなか」に”安住”してしまった者たちは、あのように問いを立てることはできないのではないだろうか。ここに「新しく別の有効な問いを立てる」動機がうかがえる。これが著者の主張である。
→この図式は、ざっくり言えば、ひとつめの社会学がはじめに来て、その成果によって、その社会学は、ふたつめの社会学に移行すると読める。これはいうなれば、ふたつの社会学の関係を説いていると言ってもいいだろう。というのも、ふたつの社会学は水と油のように語られていたわけだが、つまり異なる目的のために、ふたつの社会学は出発点を変えていたわけであり、「マイノリティ向けの社会学」と「マジョリティ向けの社会学」と分けられていたわけだが、それを「マイノリティ向けの社会学」から「マジョリティ向けの社会学」へ、という段階として関係づけているのがここでのポイントである。
→マイノリティと呼ばれている人たちは、女性、障害者、セクシュアル・マイノリティ(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーなど)など、色々いる。それぞれの「マイノリティの社会学」があるため、完全に同時に「マジョリティの社会学」に移行する訳ではないだろう。また時間軸ではなく、空間的な軸においても均質的に移行するとはいえないだろう。都会では、女性がマジョリティ側になっているが、地方では、まだまだ根強く女性がマイノリティの立場にさせられていたら、そこでは「マイノリティの社会学」が必要である。ここに空間的な「ムラ」とでもいうような状況があるだろう。
→ここでの指摘は「マイノリティの社会学」も「マジョリティの社会学」を必要とするタイミングがくるということだった。全然話は変わるが、マジョリティは本当に「マイノリティ向けの社会学」のことを理解できないのだろうか。ここでよく言われている「(社会的)弱者」への想像力という観点で、マジョリティ・サイドがマイノリティの社会学に共感するという可能性を、著者は取っていない。むしろそのように超えるようなことが「不可能である」と諦めているように思える。そのため、マジョリティ向けの社会学を構想することに至ったのだろう。
・次に「理想」について。
・「このことを「悪」とは逆の側、つまり「理想」の方から、考えてもよいだろう。「社会の外」から出発する「社会学」は、「悪」を消去したすばらしい「社会」を、その「理想」を描くことをたびたび試みてきたように思われる。(中略)しかし、そうした描き型に、いまこの文章が照準している人々ーー「弱者」でも「改革者」でもない人々ーーは、こころを動かされないかもしれない。(中略)「悪」は私の外にあって、私にはないとうる人々は一挙にそこ(理想)まで跳ぶことができるかもしれないが、「悪」が私にもあると知ってしまった人々は、そのような「理想」に簡単に近づくことはできない。」
→「悪」を指摘したあとの、悪なき「理想」、この図式はまさにひとつめの社会学の図式である。再三になるが、それは社会のそとにいるからこそできることなのである。しかし、そのような試みは、「社会の中」にいるひとたちには刺さらないだろう。そのひとたちにとって、「悪」は自分の中にあり、その「悪」が、どこかその簡単な図式に没頭することを邪魔する。原理的に、これを超えることはできないのである。
・「これはただ描くことだけだ、そこからは何も始まらないではないか、という人々がいるかもしれない。」
・「「理想」を提示することは、ある意味でやさしい。しかし、重要なのは、そこまでの道を、いまここから出発して一歩一歩埋めていくていねいな作業だ。そして、その方向に進むことも、いまここで私たちがなにをしているかを描く作業なしには始めなくてはならない。それを行なってはじめて、私たちはなにかを変える可能性をようやく手にするのだ。」
・「私がいまなにをしているのか、をどこまでも丁寧に描き出すこと、これである。まずするべきことはこれだけであり、これが成果をあげるまで、「理想」を述べることは、踏みとどまって我慢しなければならないように私は思う。」
・「私は、こうも考える。こうしたふたつの側面をはっきりと知るだけで、もうすでにかなりのことが変わっているのではないか、と。」
・「それを知ることで、その矛盾を解きほぐす作業を始めたり、矛盾を断ち切れはしなくてもそれが知らないまま自動的に働くのを遮るような方策を講じたりはできるように思われる。」
→ひとつめの社会学の目的は、明白である。明白すぎて怖いくらい明白である。「悪を排除し、理想を掲げる」これが目的だ。ただ、それは「社会のそと」にいるからこそ可能であり、大半のひとは「社会のなか」にいる。そしてこの「社会のなか」にいる人たちは、自分らのなかに「排除すべき悪」をもたざるをえないため、原理的に、ひとつめの社会学の目的に簡単に乗ることができない。そうした社会学の言説にこころを動かされないのである。そして、この人たちに有効な社会学をつくるのが同書のやりたいことであった。では、そうした社会学をすることで何が生まれるのだろうか。その目的は?
→正直いって、この目的は濁される。というより、提示さえるのは「ただ描くことだ」と、目的ではなく手段ともいえることだけだ。「私がいまなにをしているのか、をどこまでも丁寧に描き出すこと、これである。」著者は、この次元に踏みとどまること、安直に目的を設定しないことをひたすらに説いている。ここに先ほど私が指摘した、著者の提示する態度が「どっちもどっち」を持ってしまうという可能性が否定されるだろう。つまり「どっちもどっち」と結論づけたいがために、判断を留保し、両面を描いているのではないことだ。むしろ「どっちもどっち」という判断も留保される。正直一番、精神的にキツいことをしている、させられることになると言えよう。
→目的は、このように意図的に設定されないわけだが、目的ではなく「効能」のようなものは、語られている。「こうしたふたつの側面をはっきりと知るだけで、もうすでにかなりのことが変わっているのではないか」、というように、向き合わされてしまったマジョリティは、もうただでは済まない。同書に出会わなかったら、そのまま悪に加担することに罪悪感の一つも持たずに社会の利益を享受していただろうが、この本に出会ったしまったがゆえに、「悪」が「悪」として自分の中にあることに自覚的になり、それをもとにして自分が利益も得ていることにも自覚的になる。そして、そのことを知ったことにより、自らのなかにある「矛盾を解きほぐす作業を始めたり、矛盾を断ち切れはしなくてもそれが知らないまま自動的に働くのを遮るような方策を講じたりはできるように思われる。」この状態にマジョリティを持っていかせることができる、そうした効能を同書はもたらしてくれるわけだ。
→ただ、明らかにこの「マジョリティのための社会学」の台頭は、「マイノリティのための社会学」を弱まらせる。「悪」を指摘することは、それに安住しているマジョリティの居心地の悪さを与える。つまりマジョリティを「加害者」と名指すことで、居心地の悪くさせ、彼ら自身が自らを「加害者」ではなく「支援者」に立場を変えることを促すわけだ。このムーブメントを使って社会を大きく変えるような動きを「マイノリティのための社会学」は期待するわけだが、同書での「マジョリティのための社会学」は、マジョリティがもつ「悪」に対する評価を留保させる。すると「マジョリティ」→「加害者」→「支援者」という流れをつくりだすことができず、ムーブメントは弱まっていく。ただ思うに、以上のようにマジョリティの加害者意識をあおりたてて、強引なムーブメントをつくりだすようなやり方が、「マイノリティのための社会学」の自らの衰退を引き起こしたといってもいいのかもしれない。この点で、同書の「マジョリティのための社会学」は、新たな可能性であるわけだ。