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【書評】 伊藤亜紗 『手の倫理』

手を介した人間関係

普段、人の体に触れることはありますか。例えば握手だったり、ハグだったり、または介護での身体介助も、そうした「人の体にふれる経験」だと言えます。ただ、どうでしょう。物や自分の体にさわることはよくある一方、こうした人の体にふれることは機会や関係性がないと生まれないような気がします。つまり、身体的接触や介助が身近な人たちにとっては、人との接触は日常茶飯事ですが、それが身近でない人たちにとっては、人の体にふれることは経験として少ないように思えるのです。そのため、そうした人たちにとって、「人との身体的接触」はあまり問題の中心として現れてこないのではないでしょうか。ただ現に身体的接触を介しながら生きている人たちはいて、また人類はみな老いる運命にあります。今回紹介する本『手の倫理』では、そうした周縁化されがちともいえる「人と人との身体接触」が主題となります。もう一歩踏み込めば、同書では、リハビリや身体介助などの場面における具体的なやり取りから「人が人の体にふれるための技法」を言語化し、人と物理的な距離をとって生きている人たちが前提にしている「言葉」や「まなざし(見られていること)」を介した人間関係以外の可能性、「手」を介した人間関係のあり方を提示しているのです。

とはいっても、それは具体的にどういうことなのでしょうか。ここで少し立ち止まり、「人の体にふれること」を「物にさわること」との違いから考えてみましょう。

まず「物をさわること」から。例えば、静止している物を手で動かすとき、どうでしょうか。きっと物側から反応はありませんし、大抵の場合は自分の思い通りに動かせるでしょう。しかし、人の体の場合、どうでしょうか。ふれる対象も自分と同じ人間です。当然、相手からの反応=リアクションがあるわけですし、接触面のわずかな力加減などからお互いの態度が分かったりします。また相手を鑑みず、自分よがりに動かそうとすれば、抵抗されるでしょうし、その後のふれあいの流れは、相手との関係なしに決まることはないでしょう。つまり、人の体にふれることは、物にさわることとは異なり相互的で、接触面を通して相手とコミュニケーションを取ることになるのです。

当然こうした身体的コミュニケーションは、他のコミュニケーション、例えば言語であったり、視線を交わし合うコミュニケーションと同列に並べられます。ただ、それと同時に、この身体的、つまり触覚を用いたコミュニケーションには、身体や触覚ゆえの固有性もあるわけです。そのため議論は、いわゆる身体論や触覚論も巻き込んでいくわけですが、既存の触覚論は、対象に対する一方的な接触、つまり「さわること」に偏っていたといいます。そこで同書は、従来の触覚論を踏まえつつ、議論の対象を相互的な接触、つまり「ふれること」にも拡張し、それをもとに触覚を介したコミュニケーションの特徴を探求しています。


悩みと創造の「倫理」

題名の「手の倫理」には、先に説明した「手(=触覚)」と、もうひとつ「倫理」という言葉が使われています。つまり同書では、単に「触覚を介したコミュニケーション」の特徴を整理するだけでなく、そのコミュニケーションにおける「倫理」について語っているのです。では、この「倫理」はどういった意味で使われているのでしょうか。ここは大事なので、ふれておきましょう。

よく「倫理」という語は、「人として守らなくてはいけないルール」を指し、「道徳」と同じ意味として用いられることが多いかと思います。両方とも善に関わる概念ですが、同書では「倫理」と「道徳」を区別し、前者の「倫理」のあり方に注目します。どのように区別されるかというと、それらは大きく「抽象/具体」「一般/特殊」という観点で区別されます。すなわち「道徳」は、いつ何時でも成り立つ(べき)画一的な正しさを志向するのに対し、「倫理」的な態度は、すでにある「〜すべし」という杓子定規に縋らず、置かれている具体的な状況に向き合い、自分なりに最善の答えを出すものとして分けられているのです。別の言い方をすれば、「道徳」は先行する理念に即して行動するのに対して、「倫理」は目の前の状況に応答していく、その点に違いがあると言えるでしょう。

また、著者は「倫理とは悩みがつきもので、それゆえ創造的である」とも言います。ここで本文を引用しましょう。

「倫理に『迷い』や『悩み』がつきものである、ということは、倫理が、ある種の創造性を秘めているということを意味しています。なぜなら、人は悩み、迷うなかで、二者択一のようにみえていた状況にも実はさまざまな選択肢がありうることに気づき、杓子定規に『〜すべし』と命ずる道徳の示す価値を相対化することができるからです。もちろん、それに定まった価値の外部に出ること、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせです。しかし、この迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する倫理の創造性があるといえます。」(p. 40)

先ほど話した通り、道徳は、具体的な状況を無視して「〜すべし」と命じます。ただ道徳による判断は、その性格からして、現実の状況にうまくフォットするわけではないのです。そして現状にフィットしないからこそ、人はときに道徳と現実の間で板挟みに遭うわけです。その間、「人は悩み、迷う」わけですが、それは現実の具体的な状況に向き合っている証拠とも言えます。このとき初めて、道徳に隠れた潜在的選択肢に気づくことができ、その場に即した新たな価値の創造、その可能性が立ち現れるのです。

こうした意味で、同書における「倫理」を捉えると、同書での問いは「触覚特有のコミュニケーション形態のどういった点に、目の前の相手と向き合い、悩みながらも善い関係をつくる契機があるのか」だと言えるでしょう


ゆだねると入ってくる、身体のメディア性

同書は、先ほど定式化した問いに対してどのように答えているのでしょう。詳しくはぜひ同書を読んでいただきたいわけですが、本書評では、同書で提示されている身体的コミュニケーションの特徴のひとつ、「ゆだねると入ってくる」にトピックを限定し、その特徴がもつ「倫理」の可能性を手短に再演してみようと思います。この特徴は、倫理の条件のなかでも「目の前の相手と向き合う」ことに関わるのですが、身体がもつ特徴ゆえに「向き合う」かたちではない仕方で相手と関わることになります。そこが見所のひとつです。

まず「ゆだねると入ってくる」が意図していることですが、大雑把に言えば、相手にコミュニケーションの主導権を手渡すと、相手の情報が自然に入ってくるということです。ただなかなか想像しづらいと思うので、それとは逆の「ゆだねないと入ってこない」を経由させて説明しようと思います。

「ゆだねること」の反対、「ゆだねないこと」ですが、それはコミュニケーションの主導権を相手に渡さないこと、つまり「ふれあいの流れ」を相手を鑑みずに、自分がコントロールしようとすることです。では、このとき身体はどうなっているでしょうか。当然流れをコントロールしようと体に力が入り、強張っていることが想像できます。この状態は、言うなれば、自分の身体が自分の意図で埋め尽くされている状態です。そこには、相手が入る隙、相手を受け入れる余地はないことでしょう。また、このように来られたら、一方の相手は抵抗するでしょうし、相手の身体も「抵抗の意」で強張ります。この場合、相手もこちらの情報を受け取るような柔軟性はありません。結果として、そこには「確固とした私」と「確固としたあなた」しか存在せず、コミュニケーションは互いの意図=主張のバトルになるでしょう。これは、ほぼ喧嘩のとっくみあいです。

そのように自分の意図通りに「ふれあいの流れ」をもっていこうとするのではなく、「ふれあいの流れ」を相手にゆだねてみる。すると、相手の情報が身体を通じて自然に入ってくる、それが「ゆだねると入ってくる」の意味です。ただ現実的には全てをゆだねるわけにはいかないため、相手にゆだねた分だけ、相手の情報が入ってくることになります。それは、自分の身体を意図で満たさなければ、身体に何かしらのゆとり、スペースができ、その余白に相手の情報が入り込んでくる、そういった感覚です。このとき、余白は空いたら空いたままにはならず、そこにおのずと相手の情報が漏れこんでくる、この「おのずと漏れこんでくる」ことが大事です。そしてこちらの緊張がとければ、相手も抵抗する必要がなくなり、同様に緩みます。これによって、互いの情報がじわじわと共有されていくのです。

この「ゆだねると入ってくる」は、互いの身体が先ほどの「確固たる2つの伝達主体」ではなく、部分的に互いを繋ぐメディアとして機能するときの特徴だと言えます。そこでは自と他の境界が曖昧になり、他が意図せず自のなかに流入してくるわけです。この「身体のメディア性」、それによる他との自然な遭遇は、目の前の具体的な相手と関係を新たにつくりだす「手の倫理」の基盤になると言えるでしょう。


「一体化」ではなく「混じり合う」

先ほど「自と他の境界が曖昧になって」という表現を使いましたが、ここで意図しているのは「自と他の一体化」ではないことに注意しなくてはなりません。つまり身体同士の接触、そのふれあいを通して、お互いの内面が通じ合い、何の差異もない「一心一体」の状態になることではないのです。同書では、「ふれあい」という語にそうしたイメージが纏わりついているとし、内実としては「じりじりとしたやり取り」があることを指摘します。

「『ふれあい』という言葉は、一般に、共感的でいつくしむような情緒的な交わりを指します。しかし、文字通りの『ふれ・あう』、つまり接触のさなかに起こっているのは、共感を持ちながらも接触のパターンをお互いに微調整したり交渉するような、じりじりとした動的なプロセスです。」(p. 130)

つまり「ふれあい」の内実は、1回で終わるものではなく、双方向的に「ふれる」ことが幾度となく交わし続けられていることです。そこには「何か漠然とした温もりに包まれる」ようなイメージはないと言えるでしょう。著者があえてここで、適度な緊張を含むような「じりじり」という語を選んでいるのは、そうした「一心一体による多幸感」というイメージと距離をとるためとも読めそうです。

また、これは「身体のメディア性」が部分的に発揮されるのと近いですが、「ふれあい」によって生まれる「混じり合い(融和)」は、接触面にのみ発生するとしています。この部分は、同書の表現を借りてみましょう。

「重要なのは、輪郭がゆらいだ先にある『融和』が『一体化』とは違う、ということです。(中略)融和は、永遠に混じり合わない二つの液体のあいだに生じる渦のようなもの、とでも言えばいいのでしょうか。渦は、二つの液体が活発にかき混ぜられているあいだだけ、境界面に出現します。」(p. 134)

つまり、一体化することのない2つの存在(自と他)が、互いの「身体のメディア性」を活かしてやり取りするとき、その身体と身体の接触面に「共」が発生するということです。またここで重要なのは「かき混ぜられているあいだだけ」という限定でしょう。つまり、じりじりとやり取りを交わしあう、それが終わると、「渦」=「混じり合い(融和)」の方も次第に落ち着き、自と他はそれぞれ輪郭を新たにするわけです。

この感覚は、整体を終えてお会計するときにみられる整体師さんのよそよそしさに似ていると個人的に思うのです。患者である私は身をゆだね、また整体師は患者である私の身体の声を自身の「身体のメディア性」を活かして聞いてくれる。けど施術が終われば、他人同士に戻るわけです。というより、むしろ最後他人に戻るからこそ、つまり心的距離が保証されているからこそ、施術中、安心して身をゆだねられるのではないでしょうか。「ふれあい」が持つ、ある種の「ドライさ」は、人と関係を取りもつ際にかなり重要な役割を担っているように思うのでした。

最後に、この本で使われている言葉たちが魅惑的すぎることを伝えておきましょう。それらの言葉は読み手の感覚を触発し、書かれていることを直に体験していないのにも関わらず、あたかも体験しているかのような錯覚を引き起こし、同書の内容に引き込んでいきます。それによって、「共鳴」とも言える状態までいっちゃうかもしれません。だからといって、著者の思想と「一体化」することはないので、ご安心を。魅惑の言葉に思考をゆだね、それによる「混じり合い」を楽しみながら、ぜひ、手を介した人間関係の奥深さを実感してみてください。


*本文は、参宮橋にあるギャラリーカフェまのまの書評冊子「まのま日和 vol.3」に収録される予定である。

ギャラリーカフェ まのま

参宮橋公園の裏口から2軒目にあるギャラリーカフェ。美大生を中心に2021年春に期間限定で開催。現在は「気ままにゆるり と」不定期営業。開店日は Instagram にて随時告知。 

https://www.instagram.com/ma__no__ma/?hl=ja


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