映画感想文「ブラックバード、ブラックベリー 私は私。」小さな村の中年女性が人と交わり変わり始めるまでを描く
ジョージアって、どこ?
そこから始まった。
本作はジョージア映画である。
ロシアとトルコに挟まれた、コーカサス地方、東ヨーロッパの小国。そのジョージアのベストセラー小説の映画化だという。
主人公はある中年女性だ。
山脈の合間の小さな村に住む48歳のエテロ。幼い頃に母を亡くし、父と兄の世話をして暮らしてきた。
いまはその2人も亡くなった。未婚で子供なしの彼女は天涯孤独の身である。しかし、寂しいと感じたことはない。
山でブルーベリーを摘み、ジャムを作る。村のみんなが訪れる日用品の店を細々と経営している。そんな風に、地味だけど誰にも拘束されずひとり好きなように生きる人生。
たぶん、いままでが家に縛られる暮らしだったからこそ、自由の有り難さが彼女にとって貴重だったんだろう。
それゆえか、そんな孤独だけど自由な毎日の暮らしにも自分にも満足している。
そんな彼女にある日転機が訪れる。それは恋というより、快楽である。相手を知りたいとか、自分をわかって欲しいとかではなく、もっとティーンエイジャーのような本能的欲求。それを彼女は知る。
否定はしない。それも大切だ。
だが、なんだかそれだけなんだよね、というのが物足りない。ちょっと薄っぺらに感じてしまった。
偏見かもしれないが、この年齢の大人がそれは寂しいなー、という違和感である。もっと気持ちの繋がりやお互いを知るような工程も描いてくれたらよかったのになと思う。例え身体だけの関係だったとしても、もう少し人としての繋がりが生まれるのではないか。
また、これは彼女と村の人たち(ここにもなぜか女性ばかりが出てくるのが違和感だったりするのだが)との関係も同様である。
なんだか薄っぺらいのだ。独身の彼女を村の女達(そこには独身はいない)は軽んじて井戸端会議やお茶会で揶揄する。それが本当に酷い、小学生の悪口レベルなのだ。聞いていて心が痛むくらいの貶め方である。
それに返す彼女もヒステリックに彼女達の生き方を否定する発言で彼女達を貶める。
要するにお互いに自分の生き方を正当化し相手の生き方を完膚なきまでに非難する。この攻防が続く。なんだかなー、である。
どうだろう。本当に自分の生き方を肯定している幸せな人は、相手の生き方をここまで躍起になって否定したりしない。その思いが拭えず、登場人物がいずれも不幸せそうであまり魅力的に見えなかった。
エテロに限っていえば、家に縛られた狭い村での暮らしが彼女のそのような情緒の成長を留めたとも、受け取れる。彼女の生い立ちからは仕方ないのかもしれない。それでも、48歳といえば生まれ育ちを言い訳にできない年齢ではないか。
自由に生きることは素敵だ。だが、自由に生きるとは、周囲に心を閉じ孤高の人となる、ではない。
もう少し人と分かり合ったり分かち合ったりした方が人生が豊かになる。まあ、それは私の価値観の押し付けかもしれないのでいったん横に置いておくとして。
何より違和感は本当に孤独を知る人は相手の(村の女達の)孤独にも思いを馳せられるのではないか。という点であった。
だからこれは自由な女の物語というより、人と分かち合うことを知らない女の成長の物語、しかも序章のみ(ラストの方で彼女が一皮剥けるかもしれない出来事が出てきてその後の成長を示唆する。しかし成長するまでは描かれないから)、と捉えた。