映画感想文「ジョイランドわたしの願い」家父長制の中で生きる人々のやるせなさ描くパキスタン映画
本当はこうしたいのに。
言葉を飲み込む。自分がしたいことを言えない。何度も繰り返されるそんな展開に、ため息がもれた。
そして、ラストシーン。
やられた。切なさに胸が締め付けられた。彼らには、もっと違う未来があったはずなのに。誰かひとりでももっと早く声をあげていれば。それが口惜しくてならない。
パキスタンの大都市ラホール。そこで伝統的な家庭で暮らす次男夫婦と彼らを取り巻く一家の物語だ。
次男ハイダルは失業中。長男とハイダルの妻ムムターズが働き、父親、長男一家6人、次男一家2人の計9人の生活を支えている。
父は身体が不自由で介添が必要。長男一家にはまだ学校にいく年齢にも達していない乳幼児が4人いる。介護と子育てで大変。それに加えて、一家9人の家事はハイダルと長男の妻の仕事になっている。
典型的な家父長制度のこの家では、父の言うことが絶対だ。ハイダルがどこで働くべきか、夫婦がいつ子供を持つべきか、いや果ては彼らの髪型まで、選択の全てに父の許可がいる。
驚くのは、父の言うことがおかしいと思っても、誰も意見しないことだ。「それは嫌だ」「私はこうしたい」と返さない。絶望的な目をしてそっとため息をつき、ただそれを受け入れるだけなのだ。
長男も次男も、また彼らの嫁たちも、常に父に叱責され、命じられている。なんて不自由で息苦しい暮らしなのか。
更に残念なことに、家長として君臨する父もあまり幸せそうではない。不自由な身体で虚勢を張り、他人に甘えることができない。弱音や本音を吐けない。幸せになれるチャンスがあったのに、みすみす逃してしまう。
誰も幸せそうではないのに、誰のための我慢なのか。
ハイダルが憧れるトランスジェンダーのビバ。彼女はダンスホールで働くダンサーだ。意志が強く誰にでも自らの生き方をちゃんと主張する。強いし立派だが、LGBTQが許容されることのないパキスタンで非常に生きづらそうだ。
しかし、トランスジェンダーのビバの生きつらさと、「男なんだからこうしろ」と父に強制されるハイダル、妻として女として家に入ることを強制されるムムターズ。いずれも同様に生き辛そうにに見える。
誰でもいい。ひとりでも声をあげていれば。ジョイランドがここにあったのに。そう思う。
監督は本作が長篇デビュー。本作はみずみずしい感性で描かれており、脚本も良い。今後もこの監督の作品を観たいと思う、非常に秀逸な出来栄えであった。
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