それぞれの10年 地味な闘病
精神障碍者の闘病は地味だ。
私がまだ健常と障害の幅の広いボーダーにたたずんでいたころ、311と後に呼ばれた地震が起きた。金曜日だった。
当時勤めていたマスコミの記者たちは一斉に現地へ向かい、内勤の私のデスク横にあったプリンターからは、逐次カメラマンから届く凄惨な現地の写真が印刷された。津波から数日後、一変して泥にまみれた瓦礫の山となったその地に刺された、リボンのついた無数の竹竿は、ご遺体の位置を示していた。
公に出る写真はそこまでが限界だったけれど、編集部で飛び交う写真は、生々しく無残なご遺体がそのまま映し出されていた。ひとも犬も牛も。
あれから10年が経った。
その写真がトリガーだったのか、あるいは、ネガティブな人間関係や、生来の脆弱性か何かなのか、なぜそうなったのかは定かではないが、311から数日を数えた後、私は毎日熱を出すようになった。
それからは少しずつ。同僚の話声が全て自分の悪口のように聞こえ始めた。
眠れぬ夜が続き、深夜にパジャマのようなかっこうで西新宿を歩き回った。どうしてだか、いてもたってもいられずに、家を飛び出し、都庁の裏のベンチで号泣した。
朝方に玄関チャイムが鳴り、私はその訪問者を恐れ、何度も息をひそめたが、おそらくチャイムなど鳴っていなかった。
幻聴はそれだけではなく、女性の悲鳴や、「うるさい」と叫ぶ声や、頭の中で響く衝突音。すべて、現実に音が発生しているわけなどない。
ひどい波ばかりがくるわけではない。
泣くだけで済む波もあるし、マンションのベランダから下を眺める波もあった。
何を訴えるわけでもないハンガーストライキが始まり、
今までに楽しいこともあったはずなのに、楽しいことなどひとつもなかったし、この先も永久に訪れない確信に絶望する。
生きている分孤独と不安に耐えて、何度眠れぬ夜を超えればいいのだろうと、超えたその先に同じことが待っているだけなのに終わりを選ばない理由は今更なんだと、そんな反芻的な問いかけと、果てしない拠り所のなさが意識の中核だった。
命を絶つことなどしてはいけない。悲しむひとがいるじゃないか。そんな安っぽい言葉をどこか遠くで聞いては、「でも、生きていた時になにもしてくれなかったじゃない。」と、それだけ残った真実は安っぽさを圧倒的に分断した。
そのくせに時間が流れると、今までの不安も不調も全てうそだったように、体にエネルギーが湧いてくる感覚が訪れて、なんでもできる、どこにでも行けるような気分になった。使いもしない、全く同じブランドもののバッグを、色違いで買うようなこともした。生活費の4倍ほどだった。
双極性障害だと診断をされたのはそれから7年が経った頃だった。
7年。20代のほとんどだった。
精神障碍者の闘病は地味だ。睡眠を助ける薬や、動悸を抑える薬は必須でも、入院するような必要のない私は、仮面のように世間と繋がり、告白でもしない限り誰も私が、歌って泣いて、洗面所で横たわっていることなど想像がつかないだろう。
投薬を開始して3年。今の私は、きっと私は来年も生きているのだろうと思っている。強い意志や確信ではなく、この10年で初めて、ただそう思っている。それが、どれだけ前を向く力を与えてくれていることか。来年も生きているのなら、今年やりたいことも思いつく。未来のためになにかをすることが、今までまるでできなかった。
薬がヒットしているのだ。
時々滑落するように、号泣することも、家から出られなくなることも、ハンガーストライキで大幅に体重を落とすこともあるが、もう玄関チャイムは聞こえない。ゴキブリの幻覚も、目覚めてから、自分が夜中にしでかしたであろう落書きに恐怖することもない。
それと引き換えであれば、一生薬を飲み続けることや、通院することなど大したことではない。
私は、双極性障害がなにかまるでよくわかっていなかった。自分の異変をそんなふうにとらえていなかった。それができていたなら、あれほど泣いて、吐いて、死なないことにフォーカスするだけの20代じゃなかったかもしれない。
もし、ご家族が双極性障害かもしれないと思って読んでいる方がいたとしたら、どれだけ本人が拒絶したとしても病院へ連れて行ってほしい。
薬のない双極性障害者は、唯一の希望は自死だと考える。紙壱枚くらいの差で今日を生きているくらい危うい。
もし、少しでもご自身に不調を感じて、双極性障害やうつ病を調べて読んでいる方がいたとしたら、どうか病院へ行ってほしい。薬がヒットすれば、朝起きて、仕事に行き、食事をとって眠る。そんな生活がきっとできるから。
自分が病気だとか、病気じゃないだとかは後から考えればいい。
地味な闘病から10年が経って、誰かに伝えたいことはそれだけだった。今苦しんでいる人たちが一人でも多く、一日でも早く、病院へ行くことを願ってる。