お芝居の熱はそのままで。
舞台『中村仲蔵』が池袋の劇場で上演中だ。
主演を務めるのは藤原竜也さん。
江戸時代に名を轟かせた歌舞伎役者・中村仲蔵と同様に、根性でのし上がり芝居に生きる現代において稀有な役者の代表。いや、わたしにとりただ1人だ。
2/11のホリプロ貸切公演で、上演後に藤原竜也さんと演出の蓬莱竜太さんとのアフタートークがあった。
そこで語られたのは「中村仲蔵」という、実在した芝居に生きた歌舞伎役者と、「藤原竜也」という、芝居に生きることを“性”に抱える役者の渾然一体だった。
「こんなに演りきることができたら、もう死んでも良い」と己の工夫、役者人生のすべてをかけた芝居のあとに、舞台の上に倒れ伏して仲蔵は傍白する。
その場面に対して「死んでも良いと思うことはあるか?(あったか?)」と、MCから問いかけられる。
両氏、「ないですね」の一言。
1997年5月、15歳になる前の少年は何も知らない、舞台への憧れもない、彼を見出した世界的演出家の名前も知らないままに、その世界に生まれ落ちた。
その少年に待っていた未来は、デビューしたてでの主役、座長という以上に、重く孤独な経験だった。
灰皿を投げられ、直火を顔の目の前に近づけられ、「地獄の景色を見ろ」と言われ、生きさせられる。
並の少年、いや人間であれば尻尾を巻いて逃げ出す状況において、藤原竜也は逃げなかった。
ただ一心に自分を見出した演出家から「よかった」と認められることを求め、ひた進んできた。
「中村仲蔵」という役者の生き方に対し、藤原竜也を重ねてしまうと蓬莱さんは仰った。
これには観客の誰しもが頷き、よくぞ言ってくださったと唇を噛んだことだろう。
そして竜也さんご自身もまた「役者として、仲蔵の想いに共感することはある」と、どこか謙遜を交えて仰る。
もうそれだけでも、ああ……と両手を拝み合わせるばかりなのだけれど、しかし、仲蔵の魂からの「死んでも良い」はちがうのだ。
「一日、その日をやり切ることができて、お客さんに対して(やりきったと)思うことはあるけれど、それはその日のことであって、死んでも良いと思ったことはない」
(一言一句同じではなくニュアンスです)
それはまさに、役者人生に上がりはないと、嬲られズタボロにされてもなお、信念を曲げなかった仲蔵を生きた指先の力強さに表れていた。
中村仲蔵はその才を認められ、お下と呼ばれる格下の役者身分から成り上がって行った人物だ。
「血筋がものを言う」世界で、孤児であった仲蔵はしかし努力を絶やさなかった。
その道の途中、失敗や挫折の中で彼が味わった苦渋は観る者の心を痛め、目を逸らしたくなるほど。
これほどまでに厳しく過酷な、苛烈な目に遭わなければ役者として光を浴びることはできないのか。
同様に、鮮烈なデビューから一目を置かれるようになったからこそ「天才」という言葉で、血の滲むような努力を伏されてしまう悔しさを味わってきた、
そんな竜也さんの意地が、矜持が、楽屋嬲りに遭う仲蔵の無言の抵抗、手足から伝わってきた。
ただやられるだけじゃない。
「飯食うために芝居やってるんですか」
「やりてえ芝居ができねえくらいなら死んだほうがマシだ」
涙ながらに叫びながら、彼は役者仲間に訴える。
ここに中村仲蔵と、藤原竜也その人のあたたかさを感じずにいられない。
殴られ蹴られ罵られ汚されながらも、おまえたちもこんなもので満足なのかと叱咤を投げる。自分自身が這い上がりたいからこそ、そんな覚悟で良い芝居が打てるのかと訴える。
それは同じ舞台に生きる役者だからこそかけられる発破だ。
彼が放った“死”への望みですら芸の肥やしにしてしまう。命懸けで役者を生きる、役者バカ。
しかしそれこそが藤原竜也なのだと、彼を見出した演出家、蜷川幸雄さんも認めた本質に目頭熱くなる芝居だった。
「やっぱり役者は面白えなぁ!」
「役者は演じてなんぼだ!」
「面白え役を演るには這い上がるしかねえ!」
死に臨んだあとの仲蔵の叫びはどこか、
かつて師に見放され暗闇の中を彷徨う子犬のようだと言われたところから歩き続け、光を見つけた竜也さん自身の言葉に聞こえてならない。
はじまりこそ流され出したにすぎなかったけれど、水を得、昇るべき滝をみつけ、
そこに生きる意味を見出してしまった己の性。
この道にしかないのだと、欲望が呼び起こされた、獣の叫びにも聞こえる。
観るものを慄かせ、この叫びこそ藤原竜也の本域だと喉を鳴らさせる魂の重圧だった。
それは稽古場においても同じだった。
蓬莱さんは「藤原竜也が中村仲蔵のせりふを発するだけで“すごいものを見ている”と誰もが固唾を飲んで見ていた」と振り返られた。
どんな時も全力で、さまざまな手を尽くしながら、最善を模索していく。正解なんてない。だからこそ全部やってみる。その上で余計なものを削ぎ落とし創り上げていく。今回の歌舞伎という、役者全員が未経験の世界において地盤は一周してるからこそ、冒険し、永く愛されてきた歌舞伎表現を現代の演劇的なものに仕上げるために時間をかけて創り込んでくださった。
脚本のための転換、舞台装置を動かす一瞬、そして役者の一挙手一投足がそれを物語っている。
それは、「藤原竜也が中村仲蔵を生きる」ことへの覚悟を舞台に生きる誰もが飲み込んでいるからだ。
そうさせてしまえるだけの、場を掌握し、愛し愛される力が、藤原竜也には備わっている。いや、彼が無防備にそうさせていると言う方が、正しいのかも知れない。
今回の仲蔵舞台化において、ドラマ版で仲蔵を演じられた中村屋六代目の勘九郎さんから、「誰もその時代の歌舞伎を観ていないのだから、自由にやって良い」とご助言があったことで、楽になれたのだと竜也さんは仰った。
その言葉通り、猪の前足を演じる仲蔵の工夫には、竜也さんご自身の工夫が生きている。それを稽古場で受けた蓬莱さんは「そのいたずらっ子らしさが、竜也らしさだ」と振り返られた。
主演・藤原竜也の大きな看板を、自ら柔軟に開放し作品の解像度を高めていく。
彼がデビュー以来、未経験で座長を務めてこられた積み重ねがあるからこその、場の作り方なのだ。
褒められても鼻をぽりぽりかいたり、膝を触ったり照れ臭そうにただ視線を移ろわせる、いつも通りの柔らかな竜也さんがいる。
さっきまで芝居に生き抜いた熱量は、高揚した頬に名残を滲ませながら気恥ずかしそうに、だけど芯を持って「観に来てください」とはにかむ彼がいる。
その姿を見るだけで、ホッと胸を撫で下ろした。
あなたがいてくださるだけで生きていける。
こんな言い方をすると大袈裟だと笑われるかも知れないけれど、新しいあなたの顔を目の当たりにするたびに、生きていてよかったと、あなたと同じ時代に生まれてきてよかったと、心から思える。
苦しみ、暗闇に彷徨いながらも、その先にある光を見上げながら芝居に生きるあなたこそが、わたしを生かしてくださるから。
どんな時も、新しい世界を開かせてくださる。
その信頼を上回る感動をわたしの胸の奥深く、心臓に鼓動と共に届けてくださるから。
二日目のソワレ、終盤での踊りで、頰に光った涙の美しさを忘れない。
ゼロから創り上げていく演劇は、つらいし、苦しいこともある。
それでもいまこうして、演じていることが楽しくて仕方がないのだと全身全霊を打ち込んで魅せてくださっている。
「中村仲蔵に影響を受けない役者なんかいない」という言葉にも、竜也さんを重ねてどきりとした。
どこまでも純粋に、直向きに、役の奥深くまで追い求め板の上に生きる藤原竜也さんの真骨頂がどうかより多くの人に届きますように。
とくに『外郎売』は全人類みて、きいて、魂震える体験をしてほしい。演じることこそ彼の生き様なのだと、終わった後に浮かべる涙が物語っている。
さらに向上していく様を見届けたい。