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【感想】正欲

行きつけの美容院の兄さんとね、まあ、最近どうすかみたいな話するじゃないですか。
なんか映画とか見ました?って。話題がないから毎回なるんですけど。
そんで兄さんが、「正欲」って映画、なんか話題だし見てみようかなと思って。というので。
お、今原作読んでますよー。
そうなんですね、面白いですか?
あー、まだ読み始めたばっかりで、よくわからないですねー。ははは。
なんて返してたんですが。

危ねえー!これ土曜の昼下がり髪切りながらよく知らん人に勧めるような話じゃないじゃん!
いや、素晴らしいし、読むべきだとは思うけど。
いま、みんなで、ちゃんと知っておくべき事が書かれているけど。
でも迂闊には勧められないぞこんなの。

生まれ持った自身の異常な性質に苦しみ、
明日を生きることが困難な人々の話。
健全な、普通の、みんなが安心する社会からは隔離するべきもの。
しかしそれがなくては生きられない人がいる。
助けてほしいとは思わない。自分が異常だとわかってる。
でも生きることを許されたい人たちのあがく姿が描かれる。

最近はあらゆるものに「普通」を求められるようになった。
普通の日本人とか。普通はこうするとか。普通じゃないやつは消えろと言わんばかりの。
多様性といいながら、それはマジョリティ側が陣地を少し広げようとしているだけで。
理解できる範囲の人だけ、特別にちょっとこっちの陣地に入れてあげるからね。
だから僕らが嫌なことしないでね。わかるよね。
という暗黙の排他的態度がその外側から透けて見える。
自分もそうだし、あなたもそうでは?という。

最近SNSでよく見るワードに、
「本当の弱者は助けたい姿をしていない」というのがあるのだけど。
これが、だから助けなくていい。もっと助けたくなるように振る舞うべき。
という全く逆の解釈で使われ始めているのが本当に恐ろしい。

これ、本来の文脈はエンパシーを説明する言葉だと思う。
自分が自然と助けたくなるような、シンパシーを感じる人だけを助けて、
弱者救済した気になるのは本質を欠いている。
本当に助けが必要な人は、自分と全く価値観の違う、
今まで遠ざけてきたような種類の人かもしれない。

そして、本当に人を救っている人たちは、
そういう場所で、困難な状況に向き合って、
物事を良い方向に持っていこうとしている人たちだ。
容易なことではない。

気持ち悪い、意味が分からない、不気味な目の前の誰かに寄り添い、
理解できなくてもいいから、必要な手助けができることが本当の支援で、
それをするための能力がエンパシーだぞ。と。
今社会にはエンパシーが問われてるんだぞ。と。


博報堂の新人研修で語られるという、渋谷陽一さんの言葉を思い出す。

我々がコミュニケートしなければならないのは、きっとどこかにいるであろう自分のことをわかってくれる素敵な貴方ではなく、目の前にいるひとつも話の通じない最悪のその人なのである

渋谷陽一『音楽が終わった後に』




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