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今さらのMMTなんですが、やっぱり考えたいです

今日はリスクと思ってきたことについて書きたいと思います。MMT、日本語表記は「現代貨幣理論」です。それについて、なぜ今頃書こうとしているかというと、政府の今の財政政策や、今回の政策論争にその影が感じられるからです。

資産運用の実務を通して金融市場と向き合ってきましたが、学者でもエコノミストでもない私が、なぜNoteにそれを書こうとしているか。それは「プロが牛耳っていそうな投資や金融市場で一般の人の常識が大事と思う理由」という記事にも書きましたが、‘専門家’ではない普通の人の普通の生活経験に基づく常識は、やっぱり大事なんじゃないかと思っているからです。いろいろな経験に基づく様々な角度からの常識の目が集まると、一つの意味のある方向性が見えてくると思えるからです。

1.MMTとは: 代表的著作2冊

MMTは「Modern Monetary Theory」の省略形で、日本語には「現代貨幣理論」と訳されていて、よくご存じの方も多いと思います。その主唱者の一人である、ニューヨーク州立大学の経済学の教授、ステファニー・ケルトンが日本はMMTの成功例だと言ったのが、2年ほど前に日本でも結構話題になりましたよね。

様々なメディアでその主張を聞くと、「変動相場制で自国通貨を有している国家の政府は、税収や自国通貨建ての政府債務の大きさを気にすることなく、インフレの問題が起こらない限り、いつでも通貨発行することで支出ができる」というところが強調されています。

つまりアメリカや日本のような国の政府は、財政赤字なんて気にせずどんどんお金を使ってよいってことですか?と聞きたくなります。インフレの問題が起こらない限りっていうけれど、インフレって起こりだしたらコントロールが難しいってことが過去によくありましたよね、とも思います。

ステファニー・ケルトン著の「財政赤字の神話―MMTと国民のための経済の誕生」、同じくMMTの代表的著作とされるランダル・レイ(バード大学教授兼レヴィ経済研究所上級研究員)の「MMT―現代貨幣理論入門」を合わせて読んでみました。

MMT「現代貨幣理論」は革命的と称されもしますが、学問的にその系譜はあり、いろいろな学説から発展してきたもののようです。しかし、一般の人にとって大事なのは、その学問的位置づけより、それが何を提唱しているのか、それを実践するとどうなるのかというところだと思います。少なくとも、実務を仕事としてきた私の関心はそこにありますので、シンプルにそのポイントを知りたかったです。

現代貨幣理論と言いますが、これは‘新しい’‘理論’というより、‘昔からある’‘会計のルール’の話だと思います。

ケルトンは著書で「MMTは動詞、すなわち政策当局がとるべき単一、あるいは一連の行動を表す言葉ではない。‘通貨制度や、国家財政及び金融にかかわる活動を支える法的・制度的取り決めを描写する形容詞だ’」と書いています。

‘法的・制度的取り決めを描写する形容詞だ’をごく平たく言えば会計ルールのことです。変動相場制で自国通貨を有している国家の政府は、このルールを使って‘技術的には’いくらでもお金を創ることができる。実際、戦争などの非常事態が起きた場合には国の財政状況は無視してお金を印刷し、その費用を賄おうとした国は多いです。

ケルトンは著書の中で、ノーベル賞経済学者のジェームス・トービンは、ジョン・F・ケネディに「財政赤字に上限というものはあるのですか」と聞かれて「本当の上限は、インフレだけです」と答えたと記しています。また、2005年にアラン・グリーンスパン(当時のFRB議長)は、議会で米国年金の給付を賄う政府の支払い能力について質問されたとき、「政府が必要なだけ貨幣を発行し、給付を実施することを妨げる要因は何もない」と答えたと書いています。

ケルトンやレイは、MMTがマイノリティー学者の唱える奇抜な理論でないことを言いたくて、このような例を挙げたのかもしれません。しかし、これらの発言記録から、この‘会計ルール’があること自体、また、それが技術的に意味するところは、従来から当事者は認識していて、使ってもおり、特に新しい‘理論’ではないと分かります。

2.MMTに関する疑問

お金=富という概念でいうと、この話って、単に印刷機を回せば(というのは比喩表現で、実際はコンピューターのキーを打って貨幣を発行することで)、いくらでも‘富’が生まれるということ? という疑問が生まれる。そんなの直感的におかしいと思う。富=生活の豊かさをもたらすもの、というもう一方の概念があるから、しっくりこないのですよね。

例えば、ここに一世帯当たりお茶碗が一つしかないが、二つあればもっと便利だとする。政府は国民のそういう状況を察して、ではお茶碗をもう一つ買えるだけの給付金(あるいは茶碗の増産を促す投資金)を支給すると決める。で、会計ルールにしたがいキーボードを打って、給付に必要なお金を創出する。

そこで、お金をもらった人はお茶碗を買いに行くけれど(あるいは増産に取り掛かろうとするけれど)、それだけのお茶碗を作る材料や職人がそもそも存在しなければ、結局どういうことになるか。お茶碗の値段が上がるのか、お茶碗あるいは材料や職人の取り合いが何らかの問題を引き起こすのか、といろいろ考えられるけれど、結局‘生活の豊かさ’の増加には結びつかない。

お金の額と、生活の豊かさ、は一直線に結びついていないからです。たとえ、生活の豊かさ、を単純に物質的な豊かさと定義しても。

例えば、お茶碗を作る技術や労働力はあるけれど、手元資金がないので材料が買えないという場合や、窯を作れないなどの場合なら、資金提供があれば、お茶碗を増産販売できるようになります。お茶碗が増えて、豊かな生活が実現します。

しかし、本源的な価値(量も含めます)に限りがあるところに、余分のお金をつぎ込んだからといって、お茶碗は増えない(豊かさは向上しない)ですよね。行き所のなくなったお金が、問題を引き起こしそうです。

3.MMT的政策提言の制約とメリットはどこに?

ケルトンとレイも、そのところには著書で何度も触れています。ケルトンは「議会の予算に制限を課すのは議会だけだ。国民にとって重要な事業への支出を削減したくなければ、議会はそれに見合う分だけ大きな予算を承認すればいい」と書く一方で「とはいえ、ある国の経済において、安全に支出の増加を吸収できる余地は限られている。それこそが議会が注意すべき真の制約である」と書いています。

また、「どの国の経済にも内なる制限速度がある。労働力、工場、機械、原材料といった実物資源が支えられる需要には限りがあり、それを超えると無理が出る。経済が完全雇用の状態に到達すると、政府、国内民間部門(家計や企業)、あるいは海外(国内生産物に対する他国からの需要)からの追加支出は、すべてインフレリスクとなる」と説明しています。

「どの国の経済にも内なる制限速度がある...」というところは、MMTのニュースを新聞等で私自身が見た時には、触れられていなかったですが。

また、例えば「GDPの伸び率(経済成長率)が金利よりも高ければ、財政赤字は減少する」というのも、MMT理論の一部というより‘事実’です。だから、国債を発行して景気を刺激し、それで金利よりも高い経済成長率を達成すれば、結果として国の財政の健全化も進むという考えで政策も立てるのですよね。

そういう風に、MMTで述べられていることは特段新しいことでもなく、そういう考え方のもとに立てられた政策の例は、これまでにもあったわけです。

ただ、MMTの主張で「政治的議論の焦点は本来、国家の価値観、優先すべきこと、実物的な生産能力であるべき(なのに、制度の財源ばかりが注目されるようになった)」というところには、有益な面もあるように思います。政治的議論(政策論)において、一つの切り口を明確にし、議論の整理に役立つという面があると思います。

4.MMT派による政策提言

というわけで、MMT派の本領を発揮するべく、レイもケルトンもその著書で物価安定と完全雇用を促進する政策を提言しています。それは、働く用意と意欲がある適格な個人なら、誰でも職に就けるように政府が約束するプログラムです。財政赤字などは気にせず、政府はいくらでも費用を負担します。

政府のプログラムで提供する仕事は実際にどのようなものかというと、複数のMMT経済学者が、ケアエコノミー関連が好ましいと主張している、とケルトンは書いています。政府が求職者、人と地域社会、地球を大切にするような仕事をかならず見つけると保証するのです。

そこでは政府が労働力の下限価格を提示し、これを上回る賃金を企業が提示すれば、労働力を売却する。これにより、労働者は民間事業と政府プログラムの間を自由に行き来することができるので、民間部門の労働条件が改善する。そして、このプログラムの雇用は、景気後退時に増加し、景気拡大時に縮小して、インフレや経済の自動安定装置としての役割を果たす、とあります。

そうなればよいですが、実務的にはどうなんだろうと考えてしまいました。レイはこのアイデアの出どころとして、オーストラリアの羊毛価格安定プログラムを引き合いに出しています。政府は、市場価格が価格支持水準を下回った場合は羊毛を買い取り、上回った場合には羊毛を売却することで、農家の所得を安定させ、その消費支出を安定させた、と書いています。

しかし、労働者のスキルは様々で、羊毛のように均一性のあるものではなく、望まれる労働の内容も様々です。労働者の数合わせだけで、その需要と供給がやすやすと調整できるものではないと思います。 

それに、人と地域社会、地球を大切にするような仕事に就く人が、景気バッファーのように扱われれば、必要なケアができる時もあれば、できない時もあるという結果にならないでしょうか。MMT派の提言するこの政策は、何か経済恐慌が起きた時の一時的措置というようなものではなく、恒久的なプログラムという位置づけです。そのような重要なサービスの供給が不安定になっても良いものでしょうか。

また、そのようなケアサービスの供給メカニズムを維持するための装置や人員も必要です。労働者が移動してサービスの供給ができなくなった時でも、それらは固定された仕組みとして残ります。宙ぶらりんのまま放置されるのでしょうか。

この2冊の本に書いてあることだけでは、ここのところの実効性と有効性に今一つ合点が行かなかったので、その先の経済への効果というところを読んでもやはり得心できませんでした。

5.補足的な情報として:  やっぱり気になります

また、今回読んだ2冊の本以外に、昭和恐慌と呼ばれた時代について書かれた週刊エコノミストの2016年4/5特大号からも、少し抜粋したいと思います。財政赤字と経済政策の歴史を振り返ろうと、改めて読んでみたのです。馬場直彦(ゴールドマン・サックス証券日本経済チーフ・エコノミストと書いてあります)の筆になります。カッコ内は、私の注釈です。

1930年代のいわゆる「高橋財政」以降の昭和史。高橋是清蔵相は、昭和恐慌以降の重度の景気悪化とデフレから脱却するための積極財政を支援するという大きな目的もあって、1932年11月に日銀による国債引き受けを開始した(つまりMMT的発想でお金を創出)。

高橋蔵相は(その副作用についても承知していたので)、これを「一時の便法」と位置付けていた。しかし、高橋財政で日本経済は息を吹き返したにもかかわらず、「一時の便法」だったはずの日銀引き受けは脈々と続けられた。

軍部が軍事費要求を強め、公債漸減方針を主張する高橋蔵相との間で強いあつれきを生んだあげく、高橋蔵相は36年の「2.26事件」において暗殺された。

第二次世界大戦中、国家財政は悪化の一図をたどり、44年に政府債務はGNPの2倍強に達した。終戦時点では、政府債務のほとんどが国内消化だった。終戦直後の46年には、巨額の財政赤字による通貨膨張に物資不足が重なって、年率数百%というハイパーインフレが国民生活を襲った。

他の関連記事として、週刊東洋経済の2016年4/2号にでていた英国金融サービス機構(FSA)元長官のアデア・ターナーのインタビュー記事からも抜粋します。ターナーは、日本では過去にマネーファイナンスの成功例がある、として「高橋財政」に言及しています。

そして、たとえば国民の銀行口座に一人につき10万円を入れる、というヘリコバクターマネーを提言しています。ハイパーインフレの恐れは?という問いに対しては、「穏やかな秩序ある金額で実行すれば(ハイパーインフレではなく)インフレ率を2%まで押し上げられる可能性がある」と言っています。

しかし、「ただし、政治リスクがある。いったんこれが可能であると認めてしまうと、政治家は常に繰り返して大きな金額で行おうとするからだ。マネーファイナンスは薬と同じで、決まった量を飲めば効くが、過度に飲めば死に至ることもある」と続けています。

どちらも5年前の記事ですが、1944年当時、日本の政府債務はGNPの2倍(200%)強であったこと(2020年の日本の政府債務はGDP比で約240%)、ヘリコプターマネー(昨年コロナ禍の中で国民一人につき10万円の給付が実行された)のことなど、比較可能点も多いです。

今、自民党総裁選で各候補による政策論が戦わされています。財政出動の話、威勢の良い金額も掲げられています。MMTでは長期の財政収支について関心を持たないというわけではなく、短期的な財政収支均衡を追求するあまり、国の将来の経済運営という大きな視野を見失うことを避けようと提唱していると思います。

それは大事と私も思いますが、MMTが提唱されたアメリカの政府債務のGDP比は日本とは違い、2020年時で110%弱です。そこでの財政収支均衡の議論と日本におけるそれは、相当違うものがあるはずと思います。

2020年9月9日の日本経済新聞に専修大学の田中隆之教授の寄稿「世界的な金利消失㊦―緊急時の中銀の役割高まる」があり、切り抜いてありましたので抜粋します。「。。。第3に中銀の財政ファイナンス(財政赤字の穴埋め)が緊急時の役割として認識されつつある。FRBにならい、日銀も国債購入のめどを無制限とした。先行き追加の財政支出と国債発行量がよめないなか、中銀に財政ファイナンスの力と意思があることを表立っては認めないまま、誰もが知っている状況をつくることが望ましいだろう」 

表立っては認めないまま、とはどういう意味なのだろう?と気になっています。

誰がどのようなアドバイスを政治家にしている、など私は知りません。しかし今回の選挙での政策論争を聞いていると、会計技術的に(私の勝手な造語です)いくらでもお金を創出できることを表立っては認めないまま。。。というニュアンスを感じることがあります。

日本の財政赤字の状況は、少なくとも、常とは異なる、尋常ではないという意味で異常なレベルだと誰しも思っているとは思います。国が様々な問題を抱える中、財政政策のあり方を探るのが大変難しい状況になっています。今、本当に何が一時の財政デメリットを超えるメリットを生む政策なのか、専門家にお任せと決め込まず、一人一人が注視していかなくてはいけないのだと感じました。

今日は、ここで終わります。美しい秋となりますように。

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